「真理に近付くのは決まってクソ野郎ばかりだ」

――『デクリナーチャ』H・ヤンヴィッツ




自殺五分前



 私のような男に憐みを掛けて下さるんですか、娘さん? ええ、確かにこんな場所で泣き暮れているなんてのは尋常な事じゃありませんが――しかしお話しするにはやや込み入った、それに恥の多い話になります。さりとて、私の胸の裡に仕舞ったままにしておける類の話でもない。いや、正直に申し上げましょう――私もほんとう誰かに聴いてもらいたくて仕方ないんです。いいでしょう、こんな荒野で出会ったのも何かの縁だ、娘さん――どうかこの哀れな男の身の上話と、もっと哀れなある男の話を聞いてやってください。
 彼は素晴らしい人間でした。そして私は彼を裏切ったんです。いや、そういうわけではないんです……ただ、私は彼を尊敬するが故に裏切らねばならなかったんです。
 すいません、分かりやしませんね、これでは。順を追ってお話しましょう。彼は自らを「神の子」であると称して、あの預言書のいくつかに――あなたも御覧になった事があるでしょう――記されている、インマヌエルその人であると言っておりました。――あなたはお嗤いにならないんですね? 市井の人たちどころか、われわれ彼の弟子たちの中にさえも懐疑的な者があったというのに。
 とにかく、彼は預言にあった通りの数々の奇蹟を起こして見せました。盲目の病人を癒したり、足の萎えた人を立たせたり――私はそれを見て、彼に対する尊敬の念を深めていったのです。尊敬! そんな言葉で言い表せますか、この私の想いを――娘さん、あなたもいつか素敵な方に巡り合うかもしれませんが、私の彼に対する想いはそれ以上のものだったんです。なにしろ、彼は分け隔てなく人を愛しました――すべての人たちをです。私は彼のその惜しみない愛を見て、彼のために尽くそう、彼のためならば命も投げ出そうと何度も堅く誓ったものです。
 しかし――ああ! その誓いが、こんな形で試されようとは! 神は本当におられるのか、こんな残酷な運命を看過するような神が? いや、これは失礼――神の存在を疑うような事を口走りまして。私はあの預言書をすべて読みました。そこには、彼が成すとされている数々の奇蹟、偉業の他に、彼が陥れられる陰謀についても記されていたのです。――彼が死ぬ。彼は弟子の一人に裏切られて、ユダヤの民の手に掛かって死んでしまう! それに気付いた時、私は彼にそのことを問い質してみましたが、彼は既に知っているようでした。それどころか、私にこう言ったんです。「預言に書かれているなら、そうならなければならない」と。なんという狂信でしょう! 娘さん、私は決して彼がインマヌエルであるなどと心から信じてはおりませんでしたが、しかし彼のその高潔な人柄に惹かれていたのです。ですが、このようなほとんど気狂いじみた信仰を前にしても、私の彼に対する畏敬の念は揺らぐところかむしろ高まりさえしたのです。彼は本当に神の国の到来を、そしてそれをもたらすのが自分であると信じている! あれほど信じているんだ、神の国だってやって来なきゃ嘘というもんでしょう。ねえ、娘さん?
 しかし、弟子の一人に裏切られると預言は言っている。われわれ弟子は十二人おりましたが、その中の誰が裏切るのか? 誰が邪知を以ってしてあの方を祭司どもに売り渡すのか? 私は彼にそう尋ねました。するとあの方は笑って言うのです。「なにも企みから私を売り渡すのではない――すべては決められた事なのだ。私が神の子として十字架に架けられるためには、誰かが私を売らねばならぬ」
 本末転倒だと思いますか、娘さん? 預言にある通りに裏切られ、死ぬことで、却って彼の神性が証明されるという理屈が? どうあれ、私自身はもう選択の余地も何もありませんでした。それはおそらく私の役目なのです。彼を最も身近に愛し、また尊敬する弟子としての、師に対する私の義務だったのです。
 しかし――ああ! 如何に辛く悲しいことか! 最も敬うべきあの方を、愛ゆえとはいえあの薄汚い祭司どもに告げ口しなければならないというのは? 彼を完璧な存在へと昇華するために、彼を死の淵へ追いやらねばならないという、このひどく皮肉な運命!  私は下準備を着々と進めました。ただの金に目が眩んだ背信者の仮面を被り、深夜大祭司のもとを訪れて、我が師を捕えるために計略を練りました。それによれば、過越しの祭の夜に彼は大祭司の手下どもによって捕えられ、殺される。その晩に彼が行くであろう場所も祭司に伝えました。ゲッセマネです。オリブの樹の並ぶ――ご存じでしょう、娘さん?――あの楽園のような畑です。彼らは私の最も尊敬する先生を殺す計画を立て、そして私に銀貨三十枚を渡して帰らせたのです。  あの方のもとへ戻っても、私の心は穏やかではありませんでした。たとえそれが彼自身の望みであったとはいえ、私は彼を銀貨三十枚で売り渡した極悪人なのです。他の弟子たちと目を合わせることもできず悶々としながら、ついに過越しの祭を迎えてしまいました。その晩、私たちは甘いパンと葡萄酒で慎ましやかな夕食をとることになっていて、当然のことながら私もその席に着きました。師はひどく落ち着いておられました――何も知らぬ他の弟子と同じようにです。私だけが落ち着かない野良犬のような様子で、ただ食べ物を口に運んでおりました。
 そして突然、彼は立ち上がって言ったのです。「あなたがたのうちの一人が私を裏切るだろう」。その言葉に、私はただただ狼狽するばかりでした。彼の真意を計りかねていたせいもありました。私以外の弟子は、「あなたがたの一人」が自分なのではないかということを口々に慄き合っておりました。
 彼は続けて言いました。「人の子は確かに去ってゆく――聖書に書かれている通りだ。だが、人の子を裏切る者は不仕合せなものだ。その者は、この世に生れて来なければよかったのだ」
 私を除く弟子の全員が、それをやがて現れる背信者への憎悪の言葉と受け取った事でしょう。しかし、私にとっては違ったのです。確かに私は不幸な人間でした。師のゆえに師を売らねばならなかったのですから! こんな世の中に生れて来なければよかったと思った事も一度ばかりではありません。ですが、彼はそれを分かっていて、最後の最後で私に、この哀れな裏切り者に、慰めの言葉を掛けて下さったのです。未来永劫呪われるであろう私の苦しみを分かって下さったのです。私は悲しさと嬉しさに震えながら、尋ねました――裏切り者らしい態度で以ってです――「それは私のことですが、先生?」。彼はそうだと答えて、私はただ一目散にそこから逃げ出しました。
 全てうっちゃってしまおう、とその時に思いました。今すぐ大祭司の元へ駆けつけて、銀貨の袋をたたき返して、取って返す足であの方を逃がそう――神の子は殺されてはならない、殺されていいという法はない――殺されるわけがない! しかし、また同時に、自らに課せられたこの辛く重い務めをただ師の命によってのみ粛々と遂行しようという義務感も私の心の中にありました。裏切るのと、そうせよという彼の命に背くのと、どちらが罪が軽かったでしょう――娘さん、あなたはどう思いますか。
 ともあれ、私は遂にその日の夜半、大祭司の手下をゲッセマネに案内してしまいました。オリブ畑の中では、ひたすら悲痛な様子で何かを祈っておられるあの方が見えました。あの方も怖かったのです――死ぬことが。人を救うためにこの世に遣わされて、人を救うために死なねばならぬ苦痛が恐ろしかったのです。しかしやはり立派な方でした――あの方はこれから起こる恐ろしい出来事をどうか取り去ってくれと神に祈っておりましたが、こうも付け加えたのです。「受けなければならないのでしたら、あなたの御心のままに行われますように」と。
 娘さん、どうかもう少し辛抱して聞いていて下さい――あと少しで終わります。私はその時オリブ畑で祈る彼を見て、最後の最後で決心が揺らぎました。彼もやはり人並みに恐怖を感じると分かり、その痛みがどうしようもなく私の心まで伝わってきたのです。それでいて、彼は天なる父の望むままにその恐怖を受け入れようとしておられる! さよう、人の手で身を滅ぼされるよりも、彼にとっては主の御心に背くことこそが数倍も恐ろしかったのです。
 私は思いました。私は背信者になろう。しかし彼にとってのではなく、主に反逆した愚か者として。あの方は救われなければならない。たとえそれが抗いがたい神の命によって宿命付けられたことであっても、あれ以上ないほどに人間らしいあの方を死なせてはいけない!
 オリブ畑に踏み入れて、私はいささかぎこちない口調で以って彼に呼びかけました。「こんばんは、先生」――そして警告の叫びを発して、弟子の注意を集め、彼らを逃がそうとしました。たとえ祭司の使いの携える剣や槍の幾本をわが身体で受け止めてでも、彼らをここから逃がすのだと――そう思いながら口を開けかけたとき、師は仰ったのです。
 「何をしに此処に来たのか」。それは詰問ですらありませんでした。いえ、ある意味では詰問だったのかもしれませんが、私を来た目的を彼はとうに知っていたのですから。それを忘れていたのは私です。そして、彼は私がなんのために訪れたのかを思い出させようとして、そう私に訊ねたのです。  そして――ああ、娘さん、どうか憐れんで下さい――私は彼を売り渡しました! 彼こそがイエス・キリストであると、夜闇に潜んでいた祭司の手先どもに知らせて引き渡したのです! すべて彼の命じた通りにやり遂げました。彼は捕えられ、拷問され、遂にはローマ人の手に引き渡されて処刑されようとしています。彼の望んだとおりに――しかし、私にとってそれが何です? 完璧に事が運んだからといって、喝采を上げるようなことができるわけがない! 私は……私はもっとも尊敬すべき人を裏切ったんです。
 今からでも彼を救いだせるかと、さきほど祭司長のもとを訪れて彼を釈放してくれるように頼みましたが、聞き入れて貰えませんでした。その方がよかったのかもしれませんが、私はただ取り乱して、あの傲慢な祭司どもに握らされた銀貨を投げつけて、そしてここまで走ってきました――そして何に泣けばいいのかも分らぬまま、こうして泣いていたのです。
 ところで娘さん、そこに迷ったまま死んだ家畜がおりますね――その首縄を解いてこちらにくれませんか。いや、やはり私がやりましょう。あなたのその奇麗な手を死に近づけてはいけない――その素敵な水晶玉を持つのが似合う奇麗な手です。ははは、娘さん、あなたに話したらなんだか少しだけ気が楽になったような気がします。ありがとう、ここまで聞いていてくださって。
 これからどちらへ行かれるんです? 街中? ならばあの方に会えるかもしれないわけですね。これから彼が刑場へ曳かれていくんだそうですから。――私にはとても見ておれませんが、娘さん、あなたはどうか彼を見守ってください。彼がほんとうに神の子であったかどうかを見届けてください。私にはもうそうするだけの時間は残されておりませんから。
 お別れの前に、私の名を伝えておきましょう――ユダと申します。どうか覚えておいて下さい。これから世界中の人間が、神の子を裏切ったとして呪う男です。イスカリオテのユダ。ですが、どうか娘さん――あなただけは、この哀れな背教者の抱えていた苦悩を、どうか知っておいて下さい。











戻る