ヤニェク・シェノウスキとペーター・クュルテン



 私の知り合いには変な人間が多かった。
 ギムナジウムの頃からの友人であるエーリヒは酔っ払うと私に掴みかかり「俺の名前を呼んでくれ!」と叫んで号泣するし、同じ職場で働く『キ印』イェンスは昼休みにトイレで自慰をするような奴だった。極めつけに変だったのはウーリーの奴で、そいつは既に大学時代に首を吊って死んでいた。
 だが、私は自分の周りに集う人間の事を奇異に思いはしたが、それに対して無理解であるなんてことは決してなかった。奇人に対してある一定の理解を示すのは――或いは、私自身、変人の仲間だったからかもしれない。
 そんなわけで、その日も私はある変人と出会った。妹の結婚式に参加した後、一人で町へ繰り出した時の事だ。妹の祝事に昂揚も幸福感も感じる事もなく、むしろ何かの重みから解放されたような安堵を感じながら、私は当時お気に入りだった店に入った。今でもあるかどうか分からないが、デュッセルドルフにある『靴職人亭』という店で、美味いビールと豚の骨付き脛肉を出してくれた。
 その日は寒かったので、私は礼服の上に古い連邦陸軍のパーカーを羽織っていた――冬物の外套はそれしか持ってなかったのだ。しかもエポレットのボタンや右肩の三色旗が取れかかった、恰好の悪いやつだ。店に入るなりそれを脱いで、入り口のすぐ脇にある掛け釘にそれを引っ掛けた。
 ビールのジョッキを両手に担いだ店員が寄って来て、私に笑顔を向けて、こう言った。
「すいません、ただいま大変混み合っております」
「見りゃ分かるよ」
「相席お願いできますか?」
「いいよ。あとアイスバイン一つ」
 私はそれだけ告げると、店員について薄暗い店内を歩いた。案内されたテーブルには、まだ40歳くらいなのに総白髪の男が座ってビールを飲んでいた。
「失礼しますよ」
「ああ、どうぞどうぞ」
 にこやかな表情で、彼は私を迎えてくれた。間髪入れず、私の目の前に、店員の手でビールが置かれた。デュッセルドルフの飲み屋では、頼まなくてもこうしてビールが出てくる。ビールを飲みに来ない客はいないからだ。
「ミハイル・シューラーだ」
 私がビールを煽ろうとすると、向かいに座った男が突然そう言った。それが自己紹介であると気付くと、私はビールをテーブルに置いて言った。
「ヤニェク・シェノウスキー」
「ポーランド人かい?」
「お袋がチェコ人だった。名前もお袋がつけてくれたんだ」
「そうか。ヤン――」
「その呼び方はやめてくれ」
 私はわざとらしく顔をしかめて言った。
「妹が俺をそう呼んでるんだ」
 ミハイルは不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。
「ヤニェク。私は弁護士をしていてね」
「俺は歯牙ない大工の見習いだよ」
「君はそういう階級闘争的な物の見方をするのかい」
「親父は共産主義者だったからな。俺は親父が大嫌いだが」
「……君と話してると、話がどんどん脇道に逸れていくな」
 ミハイルはそう言って笑った。私はビールを一息で飲み干した。アイスバインの皿はまだ配膳されてこなかった。なのに、空のジョッキをテーブルに叩き付けるとすぐに次のジョッキが置かれた。
「私の話を聞いてはくれないかね?」
「俺にまつわる話以外なら何でも」
「結構」
 そう言うと、ミハイルは長々とビールを飲んだ。気付けば彼の椅子の足元には、空のジョッキがいくつも転がっていた。この店では、自分の飲んだジョッキを数えておいて、それで清算をする。弁護士氏の手元にある用紙には、8杯目を示す棒線が引いてあった。
「私は弁護士をしていてね」
「さっきも同じ事を言ったな」
「失礼――それで、先日はある若い男の弁護を担当したんだよ。不治の病に侵された恋人を殺したとか何とかで、ずっと拘留されていた。なんとも不憫で仕方ないような感じのする話だから、私も何とかして裁判では情状酌量を認めてもらえるようにと、何度も面会に行って色々と話し合っていたんだ」
「恋人を殺したの?」
「ああ。――それから、ひどく錯乱していたようだった。恋人は本当に死んだのかとか、しょっちゅう私に訊いてきていたよ」
 私は、このくだらない話を続けるこの男に嫌気が差し始めていたが、黙ってビールを口に運んだ。
「ある日面会に行ったら、彼は小鳥を肩に乗せていたんだ」
「小鳥ね」
「紅い小鳥だよ。しかも彼はこう言ったんだ。『僕のミーツェだ!』って」
 それが殺人犯の恋人の名前なのか、それとも単にドイツ語で「あまっこ」を意味する俗語なのか、私には分からなかった。正直どうでもよかった。
 「――でだね」と、9杯目の線を伝票に引きながらミハイルが続けた。
「私は思ったよ。この男は狂ってるってね。これなら責任能力がないってことで、医者に精神鑑定でもやらせれば、法廷に出ても上手いこと弁護できるだろう。そう思ったんだよ。その時には」
 店員がテーブルに新しいジョッキを置いた。頼まれなくてもビールを出すのが『靴職人亭』の流儀だった。
「それで?」私は伝票に線を引きながら訊ねた。
「彼が言うには、その小鳥は窓から入ってきた、という事だった。独房の上に小さな窓があって、ある日そこから入ってきたんだ、と。何故だから分からないが、恋人が生き返って戻ってきたと思ったらしい。実際、その小鳥の懐きようは大したもんだったよ。あれを見たら、私だってそれが彼の恋人の生まれ変わりだと信じてしまうところだった」
「それで――おい!」
 私はジョッキを持ち去ろうとした店員を呼び止めた。「まだ8分の1残ってる! ――すまない、それから? ミハイル」
「ああ。法廷でどう戦うかについては、それからすぐ目処がついた。もう彼の頭がイカれ――失礼、正常じゃないのは明白だったしな。然るべき病院に送られる事はあるにせよ、刑務所行きだけは絶対にない。私はそう思ったよ。病院行きというのは、私がよく使う手だがね」
 ミハイルはそう言って、ビールを煽り、そして噎せた。白い泡が私の顔と一張羅に降り注いだ。私はハンカチを取り出して、顔をしかめながらそれを拭った。
「しかし――本当にしかしだよ――次に面会に行った時、その小鳥は死んでしまっていたんだよ。彼はそれを両手で持ちながら私に言った。『死んでしまった』とね。私は何と言うべきか分からなかったから、こう答えたんだ。『それが、君が彼女に対してした事だよ』とね。……そうしたら彼、泣き始めたよ」
「恋人を殺した時には泣かなかったのか?」
「そうらしい。病気の苦しみから解き放ってやったと、むしろ喜んでいたらしい。だが、その小鳥に対してはまるで自分の母親が死んだような嘆きようだった」
 ミハイルはビールを再び口にした。
「……無論、恋人を殺した時だって泣かなくちゃいかんが。そうは思わんかね?」
 この弁護士氏はこれで何杯目なんだろう、と気になったが、無視することにした。私は4杯目だった。
「翌日、彼は自殺した」
 口の周りを泡だらけにして、ミハイルが呟くように言った。
「自殺? ああ、首吊りか何かか。俺の大学時代の知り合いもやってるよ。牢屋みたいな場所だと、首を吊るにも不便だな。だいいち引っ掛ける所がないじゃないか。その殺人犯も、小説によくあるみたいにさ、ズボンを窓枠に引っ掛けて死んだのかい?」
 私が早くも呂律の回らなくなってきた口でそう言ったのを、ミハイルは笑った。というより、嘲笑した。
「窓枠じゃなかったんだよ」
 私は首を傾げた。その時になって、頼んだ筈のアイスバインがまだ来ない事に気付いた。
「窓枠じゃなくて、ベッドのフレームにズボンを縛り付けて、それで首を吊ったんだ。いや、私の言いたいことはそういう事じゃない――実際私も弁護士として、現場を見せてもらったよ。鉄のベッド、カポックの詰められたマットレス、便器、簡単な洗面台――」
 そう言って、ミハイルはまるで何かに備えるように息をついた。そして言った。
「その部屋には、窓などなかったんだ」
 その時、アイスバインが到着した。目の前に乱雑に置かれた皿には、太い脛骨に纏わりついた肉の塊や溶けたゼラチン質なんかが乗っていた。普段はそんな風に思わないのだが、それはれっきとした豚の屍骸の一部だった。肉片だった。私は急に食欲が失せたのを感じた。
「そう。窓なんてなかったんだよ」と、ミハイルは繰り返した。
「それで?」
 私は先を促した。すると、ミハイルと名乗った弁護士は立ち上がり、ビールの伝票を摘み上げた。
「話はそれで終わりだよ。そして、今までここで呑んでいた」
 そして若い店員を呼びやると、自分のコートと帽子を取って来させて、最後にもう一度私の方を向いて言った。
「食べないのかね?」
 私は自分のアイスバインの皿を見下ろした。


 5杯目のビールを口に運びながら、私はアイスバインを切り分けていた。それは解剖であり、豚の肉片やゼラチン質を脛骨から引き剥がす作業に他ならないのだが、やはり酒を呑むのに味の濃い肉料理は欠かせないのだった。たとえスナッフ・ムービーを見ながらビールを呑むにせよ、私にはアイスバインが必要だろう。或いはヴァイスヴルストを――真っ白な腸と挽肉を。
 とにかく、私はこうして今日も奇妙な人間に出会った。もしかしたら、彼らが奇妙なのではなく、彼らはまったく正常で、私だけが変人なのかもしれないが。









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