とても美味しい。
 昼間に見た料理番組の女性は確かにそう言った。
 だが――味が見た目に左右されるものではないとは重々承知だが――実際に今目の前の鍋の中で煮えているその物体は、どう見ても美味しそうには見えなかった。
 青汁シチュー。
 健康ブームの流行に乗って食物繊維だカテキンだなどと、料理番組で勝手にでっち上げたとしか思えないようなメニュー。小麦粉と牛乳が入ってなければ完全に青汁そのものであった。
 味見する気も起きない白っぽい緑色の液体を、来月で12歳になるユーリエ・パンタブルクはおたまで軽くすくった。何度目かの味見してみようかという考えが頭をもたげ、左手に味見皿を持って、結局止めた。
 どうして自分はこんな物を夕飯に選んだのだろうか。訝りながらユーリエは鍋に蓋をして、コンロのガスを絞ると、額にかかった黒い前髪を手で払った。
 時計を見上げる。19時35分。あの人が帰ってくるまでまだ少しある。
 シチューはあのまま煮込んでおいて、その間にテーブルでも拭いておこう。シチューの味見はしない事にする。帰ってくるまで食べないで置いた、といえばあの人もきっと納得してくれるだろう。
 よしんば露見したとしても、きっと大して怒られない。
 ユーリエは布巾を手に取ると、水で湿らせてから絞った。それを手にすると居間に向かい、テーブルを念入りに磨き始めた。





 この街は、見かけに反して実は平和ではない。
 ハンス・クラインはそう思うのだ。
 実際街にいる人間のうちの4分の1は妙な目つきをした奴らで、そのさらに4分の1はポケットに粗製拳銃を忍ばせた膨らみが見える。
 殺人や傷害事件などは少ないが、禁制品の取引や強盗なんかは刑務所が一杯になるくらい発生している。逮捕者数は所轄の警官の数で割るとちょうど4くらいになる程だ。半年前に警官になった新人が、今では逮捕者数の記録保持者になっていたりもする。
 つまり、この街の警官は忙しい。
 ハンスは苛々としながらパトカーを駆っていた。ナビシートに座っている筈の相棒、マイク・ジェイコブは、今は後部座席で手錠を噛ませた小悪党を警棒で小突いている。
「面倒臭ぇな」
 マイクが言った。「課業時間終わったってのに」
「ああ」
 ハンスは答えて、灰とフィルターだけになった煙草を灰皿に押し付けた。灰皿は既に満杯で、突っ込まれた煙草が他の吸殻を焦がして煙を出していた。
 煙草のパッケージを探りながら、ハンスは後部座席の小悪党に、視線だけは前に向けたまま悪態を吐いた。
「これも手前のせいだぞ、ボケ」
「くそくらえだ」
 小悪党が答えて、マイクが警棒で男の肘を打った。ハンスは何本目かになる煙草を咥えて、ライターで火をつけた。
「随分とお上品な言葉を知ってるじゃないか、ええ?」マイクが警棒を左手でぱしぱしと鳴らす。「その言葉をあのお嬢ちゃんに教えようとでもしてたのか?」
「へへへ」
 小悪党が笑った。禿げかかった頭が小刻みに震えた。
「最近は日が落ちるのが早ぇからな。時々ああいう風に、暗くなっても遊んでる嬢ちゃんがいる。躾がなってないよな」
 それもおまえほどじゃないがな――煙草を咥えた口で、ハンスは小さく呟いた。
「去年の今ごろもよ、あんな嬢ちゃんがいたんだよ。暗いから俺がいたのにも気付かないで、周りで遊んでたガキ共も誰も気付かなかった。あとはしたい放題よ。でも後で顔見たらものすげぇブスで」
 自慢気に語る小悪党――ハンスは煙草を噛み締めた。
「掘れば余罪がわんさと出てきそうだな」
 マイクが笑いながら言った。体を横にして、右手はナビシートの背もたれを掴んでいる。
「小さい女の子が好きなのか? ハンバート」
「おれの名前はレナードだ、ポリ公」
 ユーモアのセンスも持ち合わせていなかった。レナードは続ける。
「大好きさ。ガキのあそこってのは病み付きになる。それに、自分より弱いやつを犯すととてつもなく気持ち良いんだよ」
 ハンスは内心を悟られないように、できるだけ冷静な声で言った。「十年は固いな。知ってるか? ムショだと幼児を強姦した奴は徹底的にリンチされるんだ。きっとクソでかい黒人のものでも突っ込まれて、出てくる頃にはホモに更正できるぞ」
 マイクが大笑いした。レナードも狂ったように笑いながら、悪臭のする息を吐きながら叫んだ。
「十年もご無沙汰するのか! 務め終えたらさぞガキの味が恋しくなるだろうな!」
 煙草のフィルターが噛み切れた。不揃いな無精髭の上を転がって、赤く燃える灰を撒き散らしながら煙草がぽとりと落ちた。
 ハンスはバックミラーを介してマイクの顔を見た。マイクもハンスの目を見て頷くと、ナビシートの背を掴んだ右手に力を入れた。窓の外を流れる家の灯りの数が少なくなっていた。
 ハンスはいきなり急ブレーキを踏んだ。
 手錠で両手を固定されたレナードがドライブシートの背に頭を強打した。マイクがレナードをドアから道へ蹴りだすと、続いてハンスも車を降りた。
「刑務所は止めだ」
 ホルスターのフラップを開けて、45口径を取り出しながらハンスが言った。「ここで死ね」
 地面に尻餅をついたレナードの顔に張り付いた笑みは、いつしか怯えの混じった卑屈な笑顔に変化していた。
 マイクも腰の45口径を抜いて、弾倉と薬室の一発を抜き取り、それをレナードの手に握らせてから言った。
「遺言は聞かないからな」
 その頃には、レナードの顔が引きつっていた。しかしその胸糞の悪くなるような笑顔は微量ながら残っていて、ハンスに「冗談だろ?」と語りかけているようだった。
 冗談なんかじゃないさ、ハンスは45口径をレナードの胸に向けた。
 二発の銃声が響いた。一発は肩から入り、二発目が胸を貫いた。尻餅をついていたレナードの体が雷に打たれたように震えて、そして仰向けに転がった。
 ハンスはマイクに目で合図を送ると、マイクは頷いて、手にもった拳銃の弾倉を倒れた男の持つ拳銃に戻してから、パトカーの無線に駆け寄った。回転灯が点滅を始める。「こちらC−59。こちらC−59。被疑者が移送中に逃亡。現在被疑者は負傷中。至急応援と救急車を」
ハンスは転がった死体に目をやった。幼児性愛者のなれの果て。血の水溜りが大きくなりつつあった。ハンスはかがみこんで、男の上着のポケットを漁った。
 女児用のプリントが入ったパンツが出てきた。
 ハンスは苦笑を漏らすと、それを元のように上着に戻した。とち狂った幼児性愛者のなれの果て――死ぬまで女児用パンツを手放さなかった。
「腹が減ったな。後で何か食いに行くか」
 マイクが話し掛けてきた。死体を前に食欲を丸出しにしている。
「おれはいいよ」ハンスは断った。
「多分家で作ってあるし」




 署にパトカーを返却して、その後の事後報告に手間がかかった。
 勤務時間外だから帰してくれ、明日ちゃんと報告書は提出する――そうハンスが言っても、部長はせめて簡潔でいいから口頭で私に報告していけと言い張った。マイクが面倒くさそうな素振りを見せて、ハンスが折れた。
 つまりこういう事です――パトロール中に女の子を襲おうとした馬鹿に出会って、そいつを逮捕しました。パトカーで連れて行こうとしたら、奴はマイクの銃を奪って走行中の車から飛び降りました。慌てて車を止めて降りて近付くと、飛び降りた拍子にコケたあのアホが自分に銃を向けて来たので、慌てて二発撃ちました。
 “飛び降りた拍子のコケた所を近距離から撃った”というのは重要だった。弾道解析の結果からは弾丸は撃ち下ろす形で発射されたものと特定されるであろうし、それに見合った話を作っておかなければ後々疑われるに決まっていた。
 部長はさらに尋ねた――奪われたマイクの銃には弾が装填されてなかったらしいが。
「安全装置の代わりなんですよ。撃つ前に初めて装填するんです」
 マイクはそう答えた。
 口裏は合わせてあるし、子供が好きな変態の死など誰も気に止めない。部長だって本当に関心を持っているわけではないだろう。それ以外に担当しなければいけない事件が山ほどあるし、ただ警察への風当たりの強い風潮の中、射殺という判断が適当であったかを確かめたいだけなのだ。
 ハンスはこういった手合いが大嫌いだった。
 人の死を本心から気にしない奴ら――人間の死ではなく、それによって起こる事態を気にする奴ら。
 あの戦争を起こした奴らと同じ人種。自分でおれたちを地獄へ送り込んでおいて、まともに戦わせようとしなかった。精一杯戦って生きて帰ったおれたちを赤ん坊殺しと罵った。精一杯戦って死んだ仲間を貶めた。
 何千キロも離れた安全な国から、おれたちの戦争の正当さを気にする政治家ども――戦場にそんなものはありはしないのに。
 この部長も同じようなものだとハンスは思う。安全な署のデスクで、報告書に書かれた事件を活字と写真で認識して、処理する――殴り殺された男の潰れた顔や、犯された女の精液で汚れた体なんて実際に見ていない。それなのにさも見たかのように思い込む。
「まあ、何度も言っている事だが」
 どうせ現場に出ない外野のたわごとだろう。
「発砲という行動に出る場合は、充分考慮してからにしろよ」
 だったら部長が奴を逮捕してやればよかったのに。




 制服を脱ぎ、マイクと別れて署を後にした。
 自分の車で家へと帰る途中で、十二時まで営業している小物屋へ入る。仕事を終えた帰りの男が、妻や恋人に贈るためのプレゼントを売るための気の利いた店だ。
 誰もいない狭い店内に入ると、カウンターの中のむっつりとした表情の男が小さく頭を下げた。ハンスがこの仏頂面の店員と顔を合わせるのは何回目か知れない。
「あーっと、」
 ハンスが口を開いたところに、
「“十一歳の女の子へのプレゼントにいい物はないか”――でしょう。ちょっと前から目をつけといたんですよ」
 店員が椅子から腰を上げて、店の奥へと入っていった。ハンスは姿の見えなくなった店員に向って言った。
「来月十二歳になるんだ。ちょっと大人びたやつで頼む」
「一歳差くらいなら問題ないですよ」
 店の奥から戻ってきた店員の手には、小さな木箱があった。表面には微細な彫刻が施されて、その上からオイルで仕上げられている。
 店員はその木箱をカウンターの上に置いた。そして蓋を開けると、箱の中は半分に仕切られていた。片方は普通の小物入れで、もう片方にはガラスで蓋がされていた。ガラスの中にはオルゴールが入っていた。
「また小洒落たオルゴールだな」
「ええ」
 ハンスが言った言葉にも、店員は小さく答えただけだった。普通なら売り込みの言葉を口にするところだが、この店員には商売っ気があまりないのか、気のきいた返事は返ってこない。
 ハンスはオルゴールのネジを少しだけ巻いた。オルゴールが静かに回り始めて、澄んだ音を奏で始めた。
「何の曲だ?」
「存じませんね」
 元々は小気味いい速度で奏でられているであろう曲は、あまり巻かれていないゼンマイのせいでやけに遅く感じられた。しかし綺麗な音色だ、とハンスは思った。
「気に入ったよ。あの子も気に入るだろう」
「ええ」
「で、幾らだ」
「百二十ドルで」
 ハンスはポケットから百ドル札二枚を出した。店員は八十ドルを返すと、オルゴールを素早く包装し始めた。
「で、お客さん――」
 カウンターの下に手を突っ込み、粘着剤でくっ付けるリボンを捜しながら店員が言った。
「今日は誰を殺したんです?」
 ハンスは答えなかった。
 四十半ばほどの白髪の警官が何かを買いに来る。翌日の新聞には警官が犯罪者を撃ち殺したという記事が載る。
 きっとこの店員は気付いているのだと思う。自分が誰かを殺す度に、“少女”のために、この店に何かを買いに来るということを。
 店員が器用に包み終えたオルゴールの小箱を受け取って、ハンスは踵を返した。
「またのお越しを」
 また誰かを殺したらな――ハンスは店を出た。




 小さなフラットの前で車を止めた。左手には鞄。中には綺麗に包装された贈り物。
 車を降りて、くすんだ色のコンクリートで作られた階段を昇ってゆく。二階の階段前の蛍光灯はまるでずっと昔からそうであったかのように明滅を繰り返している。
 三階に、ハンスの住居はあった。ベトナムから帰ってから初めて借りた部屋で、そのまま居着いてしまった部屋。かつては適当な大きさに切ったダクトテープを表札代わりに使っていたのが、今ではプラスティックの台座にピンク色をした円筒形のビーズを『Hans C Klein』の形に並べた豪勢なものになっている。
 ドアチャイムを押した。閉ざされたドアの向こうからくぐもったベルの音が聞こえてきて、誰かの足音が聞こえた。すぐにディスクシリンダー錠とチェーンの外れる音。
 ドアが開いた。
「おかえりなさい」
 黒い髪をして、ピンク色のエプロンを掛けた少女がハンスを迎えた。
「ただいま」
 ハンスはそう言って微笑むと、開いたドアの中に体を滑り込ませた。すぐに後ろ手に鍵を掛けて、チェーンを下ろした。
「ごめん。遅くなった――ユリ、ご飯はもう食べたのかい?」
「ううん。一緒に食べようと思って待ってた」
 そう言うと、少女――ユーリエは短い廊下を抜けて台所へと入っていった。靴を脱いだハンスはまっすぐ居間へと入った。
 居間には四十がらみの男には相応しくない品でいっぱいだった。電話機の下に敷かれたキルト織りやビーズが見事な模様を成している壁掛け、オイルが封入されたガラス瓶の中に浮くドライフラワー。テーブルだけは頑丈そうで無骨なものだが、その上に掛けられたレースはこれまた非常に女の子らしいもの。
 調度品の類は半分以上がユーリエのものだ。元々は酒瓶とベッドとテーブルとソファしかなかった独り者の部屋だったが、ユーリエが暮らすようになってからはこうした改造が何回も重ねられて、今のようなレイアウトになった。
 台所から、いい匂いのする湯気が漂っていた。
「もうすぐ行くから、座ってて」
 ハンスは脱いだコートと鞄をソファの上に置いて、テーブルに二つしかない椅子のうちの片方に腰掛けて、台所で忙しく動くユーリエの姿を見た。
「学校はどうだった?」
 ユーリエは手に底の深いシチュー皿を持ったまま振り向いて、首を傾げた。
「今日は学校休みだよ? 復員軍人記念日で」
「……ああ、そうか」
 そう呟いて、ハンスは壁に掛けられたカレンダーに目をやった。擬人化されたネズミが描かれたカレンダー。十一月十一日は復員軍人記念日だった。
 ハンスはしばらく目を閉じて、今年は式典に行けなかった事をかつての戦友に詫びた。今までは毎年行っていたのが、一昨年あたりからあまり行かなくなっていた。一緒に命を掛けた親友達の死を悼むのを忘れるはずはなかった――だが、今のハンスには死んでいったベトナムでの仲間の顔は思い出せても、名前までは思い出せなかった。顔も朧気にしか思い出せなかった。
 目を開いて、机の上に置かれたテレビのリモコンを手に取る。スイッチを入れると、今日執り行われた無名戦士墓地での式典についての特集をやっていた。  第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争での犠牲者に対するどこかの知事の弔いの言葉。そしてベトナム戦争での戦没者に対する言葉。
「私達は、これ以上若者を無駄死にさせないようにしなければなりません」
 外野のたわごと。
 ハンスはリモコンを操作してテレビを消した。誰だか知らない奴に自分の仲間たちの死を無駄死にと言われたくなかった。そして、実際彼らの死が無駄だったことが悔しくてたまらなかった。
「できたよ」
 台所から声が聞こえた。そして、両手にシチュー皿、肘でパン籠を挟んでを持ってくるユーリエの姿。
 ハンスは立ち上がってパン籠を受け取り、テーブルの真中に置いた。それを挟むようにして、ユーリエがシチュー皿を置いた。
「多く作っちゃったから多分明日もこれだけど……ごめんなさい」
「構わないよ」
 笑いながらハンスは答えた。さきほどの心の中の怒りは嘘のように消え失せていた。
 ユーリエが向いに座って、ハンスはスプーンを手にして、その時初めてシチュー皿の中身を見た。
 緑色だった。
「――何これ」
 ユーリエは答えた。
「青汁シチュー」





 やはり味は見た目に左右されないものだ。ユーリエはそう思った。
 見た目はメロンシェイクか宇宙食にしか見えないこのシチューも、食べてみれば青臭いだけの、何の変哲もないシチューだった。その青臭さでさえ普段のホウレン草を入れたシチューと大して変わりない。
 いい出来だ。
 何より、ハンスが美味しいと言ってくれたのが嬉しかった。
「これなら明日の夕飯も楽しみだよ」
 ハンス――優しいお巡りさん。正義の味方。
 ユーリエはそう思っている。
「ああ、そうだ――お土産があったんだ」
 ハンスはそう言って一旦席を立つと、鞄の中から綺麗に包まれた四角いものを取り出した。光沢のある赤いリボンが貼り付けられている。
それを持って再び席につくと、ハンスはそれを差し出した。
「これ。お土産」
「開けてもいい?」
「どうぞ」
 ユーリエはわくわくしながら包みを開けた。最初は破らないように慎重に開けていたが、一箇所が破れるとあとは少々乱雑に開けた。
 中から出てきたのは、オイル仕上げが施されたつやのある木箱だった。蓋を開けると、オルゴールが鳴る仕組みになっていた。
「ありがとう、ハンスさん」
 お礼を言うと、ハンスは本当に嬉しそうに笑った。その真っ白な髪や、笑った時にできる皺がユーリエは好きだった。普通のおじさんだが、笑ったときは本当に子供みたいに笑うのだ。
 木箱をひっくり返すと、オルゴールのネジがあった。何回か巻いて木箱を元に戻し、蓋を開けると、木箱は静かにメロディーを奏で始めた。
「本当にありがとう」
 もう一度礼を言うと、ユーリエはそのメロディーに耳を傾けた。小さい頃に何度も聴いた童謡だ。お母さんやお父さんがよく歌ってくれた。
「気に入ってもらって俺も嬉しいよ」
 ハンスはそう言って再びスプーンでシチューを食べ始める。ユーリエも箱をテーブルの隅に置いてスプーンを持ち直し、しかしオルゴールは止めずに食事を再開した。




 食事の後片付けの最中も、オルゴールは鳴り続けた。ユーリエはスポンジでシチュー皿やスプーン等を洗いながら、その音に聞き入っていた。
 そうやって食器を片付けている時に、一度ゼンマイが巻き戻ってきて曲がスローテンポになりはじめた時、ユーリエが言った。
「ハンスさんハンスさん」
「うん?」
 居間で明日提出する書類の雛型を考えていたハンスが顔を上げた。その鼻には薄い老眼鏡が乗っている。
「オルゴールのネジ巻いて」
「ああ、いいよ」
 ハンスは頼まれた通りにネジを巻き直した。ネジを巻くたびに音楽は止まり、そしてそれが何回か繰り返されると、音楽は再び元の速度で奏でられ始めた。
 オルゴールの木箱をテーブルに戻して、ハンスは言った。
「この音楽が気に入った?」
「うん」
 ユーリエは答えると、食器を全て水切り籠に入れた。エプロンで手を拭くと、それを縫いで戸棚の取ってに引っ掛けて、居間へとやってきた。
「……なあ、ユリ」
 ハンスが書類に目を落としたまま訊ねた。
「このオルゴール、何ていう曲だっけ?」
「……分かんない」
 ユーリエはそう答えて、
「でも、聴いた事はある。昔お父さんやお母さんがよく歌ってくれたから」
 そう付け足した。
「そうか」
 ハンスはそれ以上何も言わなかった。
 それからユーリエは居間にある棚に並べられた小物――全てハンスの贈り物――をオルゴールの木箱に入れたり、木箱自体を棚に並べてみたりした。ハンスは広告の裏に子供のような拙い字で書類の下書きを作りながら、時折うーんと唸っていた。
 しばらくすると、ユーリエは小さく欠伸をした。そして十時を指す時計を見上げて、
「もう寝るね」
 そう言った。
「宿題したかい」
 ハンスが下書きを終えて、書類にミミズののたうつような文字を書き付けながら訊いた。
「うん」
「歯磨けよ」
「うん」
「よし。おやすみ」
「おやすみなさい」
 ハンスは書類から顔を上げずに、ユーリエは微かな足音を廊下に響かせて、自分の部屋へと戻っていった。
 しばらく紙の上をボールペンが走る音が居間を満たしていたが、何十分か経つとハンスはボールペンを投げ出して、椅子の背にもたれて大きく伸びをした。そして天井を見ながら、誰にともなく呟いた。
「軍人復員記念日、か……」
 ハンスは体を起こして、書類とボールペンを掴むと鞄に入れた。そして部屋の隅へ行くと、クローゼットの中から濃い緑色をしたトランクを取り出した。鉄製の丈夫なトランクで、蓋の部分に黒い南京錠が掛かっている。
 いつだったか、ユーリエがこのトランクの中身について尋ねた事がある。ハンスはただ「俺の宝物だよ」と答えて、ユーリエもそれ以上訊こうとはしなかった。もしかしたらもう忘れているかもしれない。
 ズボンのベルトループに掛けていたキーホルダーを外して、中の小さい鍵を南京錠に差し込む。鍵を外して蓋を開けると、中には戦争の残滓があった。
 敵から奪った戦利品――錆びかけたバナナ型の弾倉や、木製の柄の銃剣。
 共に戦った仲間の遺品――落書きされたヘルメットのカバー。戦闘服から剥ぎ取った名札。
 海兵隊――“常に忠実な”の標語。ダブルイーグル作戦。テト攻勢での戦闘。
 地獄の残り香。
 だがそれももう、全て二十年も前の話だ。
 まだ十八歳で大学にも行かずに海兵隊へ入った、向こう見ずな若者ハンスちゃんの物語だ。
 ハンスは引っ張り出した記念品を一つ一つ手に取ると、それらを元に戻した。そして元のように鍵を掛けると、クローゼットに戻して、自らも寝るために自室へと向った。




(続く、と思う)


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