夢を見ていた。
 前の日が軍人復員記念日だったせいか、それとも寝る前にベトナムの思い出に触れたせいか、とにかくそれはベトナム戦争の夢だった。
 まず最初に思い出すのが、海兵隊で自分に付けられた仇名の事だった。
 『ヘンシェン』
 部隊の中に大学出のインテリがいて、クラインという名がドイツ系だという事と、背が低かった事から「可愛いハンスちゃん」という意味のドイツ語でそう呼んでから定着したのだ。
 それまでは無印のハンスだった。訓練生だった頃に一度だけ、同期の男が“キャベツ野郎(クラウス)”と呼んだ事があったが、そいつをハンスが殴り倒して以来誰もそう呼ばなかった。
 今にして思えば、ヘンシェンなどという可愛い名前は冗談にしか思えない。
 夢の中のヘンシェンは瓦礫が散乱した街の跡――多分フエ市かどこか――でベトコンの捕虜を撃ち殺していた。正確には捕虜ではなかった。彼らはゲリラとして自分達を欺きながら戦ってきた卑怯者で、共産主義者の手先の世界の癌で、国際法もジュネーブ戦争法規の庇護も受けられないような奴らだった。
 捕虜は泣き叫んでいる者もいれば、つたない英語で“ファック・ユー・ジーアイ”と繰り返し呻く者もいた。誰もが背の低いヘンシェンよりもさらに小柄で、痩せっぽちだった。AKと弾薬嚢を取り上げてしまえば、彼らが小隊の仲間を何人も血祭りに上げた人間だなどとは信じられなかった。もちろんそれは夢で、その時仲間の誰が殺されたのか、それはどんな顔の男達だったかというのは細かく思い出せなかった。そういう事は、決まって記憶の砂の中へ埋まってしまう。
 だがその夢の中でも、ヘンシェンが手にしたM16のチャージングハンドルを引く手応えと、それを喚くベトコンに向けて一発づつ撃った事だけははっきりと覚えていた。
 可愛いハンスちゃんの大殺戮
 それもこれも、全ては正義のためだと思っていた。今ここで彼らを何人も殺す事が、先の何十人を助けることになる。そのためにアメリカは戦い、ヘンシェンは何人もの敵を撃ち殺した。ハンスは今でもそう信じている。
 夢の終わり――空港。生きて帰ってきたヘンシェンに卵をぶつけた幼い子供の顔。横断幕。ベビーキラー。
 テレビ。南ベトナム共和国消滅のニュース。もうその頃には、ベトナムに関心を寄せる人間などいなかった。
 残ったのは膨大な死者と、戦争に正当な評価が下されなかったことに対する怒りと、長く横たわるこれからの暗い人生だけだった。





 ハンスとユーリエのどちらが先に起きるか、というのは特に決まっていない。
 しかしいつもどちらかが時間までに起きて、まだ寝ている方を起こすというのが毎朝のこの家での光景である。
 今日は、ユーリエが先に起きた。


 ハンスの部屋は殺風景だ。
 ベッドと机と椅子と、小さな棚が置かれているだけで、窓はフラットの廊下に面しているために擦りガラスになっている。机の上には何冊かの書籍が乱雑に置かれ、机の下には電気ヒーターが横になって転がっている。
 ベッドの上には、ハンスが寝ていた。寒いのか、布団を首までかけている。ぼさぼさの髪の毛があちこちに撥ねていた。
「ハンスさーん。朝ですよー」
 ドアの向こうからユーリエの声がした。続いて二回のノック音。さらに、ドアの開く音。
「朝だよー」
 二回目の声で、ハンスは軽く顔をしかめた。そして小さく呻くと、布団をひきずって体を起こした。ベッドに座った格好で、髪の毛を掻いている。
「……ああ。朝だ」
 そう小さく呟いた。ユーリエは既にピンク色のエプロンを着て、微かに朝食の香りがする。
「また着替えないで寝たんだ」
 ユーリエが言った。ハンスは枕元に置いた小さな目覚し時計を手に取って眺めた。自分で操作した記憶はないが、スヌーズのスイッチがいつの間にかオフにされていた。不思議なもので、眠っている最中に無意識に止めたに違いない。
 時計の針は6時を指していた。ハンスは言った。
「朝ご飯、取って置いて」
「あ、シャワー?」
「ああ」
「じゃあ、洗濯物出しておいて」
 ハンスは冷えた朝の空気に身を震わせて、まだ眠気の取れない頭をひきずって洗面所へと入った。よたよたと昨夜から着っぱなしのシャツと皺だらけのズボンを脱いで、シャツと下着を脱衣カゴに入れた。脱衣カゴには既にユーリエの洗い物が入っていた。
 洗面所には当然洗面台があって、そこには鏡が掛けられている。その鏡の中に映った四十二歳の男の体は、一度鍛え上げられてから少しだけ弛んだように見えた。引き攣ったような傷痕がいくつかついている。
 バスルームに入ると、朝起きてからユーリエが使ったのか、微かにタイルが温かく濡れていた。  ハンスはシャワーを出すと、熱い湯を頭から被った。寝てる間に口の中にへばりついた粘っこい唾液を吐き出して、どうせ同じ下水だからと小便を垂れ流した。
 シャンプーでがしがしと頭を洗って、石鹸で顔や体を擦り付けるように洗い、最後に眠気を洗い流すと、彼は顎に手を触れた。そろそろ髭も剃ろうかな。
 シャワーを止めて、洗面所のカゴに綺麗に積まれたタオルを一枚取って、体を拭いた。それから洗面台の棚からシェービングクリームと両刃のカミソリを取り出して、短い銀色の無精髭を全て剃り落とした。
 剃り終えて顔を洗い終えた頃には、もう眠気は吹き飛んでいた。さっぱりとした気分で脱衣カゴから着替えを取り出そうとして、

 替えのパンツすらないことに気付いた。


 ベトナムでレコンを務めた時と同じような慎重さで、ハンスは洗面所から顔を覗かせた。素っ裸で、脱ぎ捨てたズボンを広げて股間にあてがっている。
 台所からユーリエが何かを炒めている音。ユーリエは台所にいて、ハンスはこのまま廊下を突っ切って自室へ踊り込めば勝ち。ユーリエが気付けば負け。
 そっとドアを押し開けて、湿った素足が廊下にぺったぺったと引っ付く音に怯えながら、ハンスは自分の部屋へ飛び込んだ。即座にズボンをベッドの上に投げ捨て、部屋の隅に積んであったパンツを引っつかんで穿いた。
 新しいパンツの感触がかつてないほどに心地よかった。
 下らない事に感動しつつ、そのままそそくさと肌着とシャツとズボンを身につけた。靴下は、足がまだ乾いてないので履かなかった。
 それから何事もなかったかのように居間へと現れて、カウンター越しに台所のユーリエに改めておはようを言った。
「髭剃ったんだね」
 ユーリエが言って、ハンスは誇らしげに顎をさすった。
 朝食はトーストとベーコンエッグと昨晩のシチューで、ベーコンエッグは卵もベーコンもカリカリに焼かれていた。トーストは、ユーリエご自慢の焼き目がウォルト・ディズニーのキャラクターの形を作るというトースターによって焼かれていた。トーストにでっかくプリントされたネズミの顔。
 朝食というのは大抵、ゆっくり食べるなんていう優雅な真似ができない。さっさと食べ終えて、ユーリエは学校へ行く支度、ハンスは警察署へ向うための支度をしなければならない。
 そういうわけでハンスもユーリエも、大して味わうという事なしにベーコンエッグを平らげて、トーストをシチューとコーヒーと牛乳で流し込んで、その後台所で食器を洗ってカゴに伏せた。 「……そういえば学校の方はどう?」
 思いついたように訊いた。
 ユーリエはエプロンを脱ぎながら、
「勉強がちょっと難しい」
 それをいつものように戸棚の取っ手に引っ掛けて、
「けど、友達と会うのが楽しいから、そのために行ってる感じ」
 そう答えた。
「楽しいことがあるのはいい事だな」
 ハンスは言った。コートを羽織って、鞄を手に持つ。ユーリエが通学用のバックパックを持って部屋から出てきて、
「準備できた」
 というと、玄関で靴を履き始めた。玄関の扉の鍵を閉める手間の都合で、ハンスとユーリエは一緒に出掛ける。ハンスも靴を履いて外へ出ると、小さな赤いスイスアーミー・ナイフが付いたキーホルダーを取り出して、家の鍵を閉めた。
「ハンスさん」
 ユーリエが声を掛けた。
「うん?」
「ハンスさんのお仕事も楽しい?」
ハンスは鍵穴から鍵を抜くと、ドアノブを回して施錠されていることを確認した。そして振り返ってから、笑顔で答えた。
「ああ、楽しいね」
 誰かのためになっていると信じてるから。





「なあ、クライン」
 道端に止めたパトカーの助手席で、マイクが呼びかけた。マイクはハンスよりも年下だが、何年も同じバディを組んでいると年の差や階級の違いなどは大した意味を持たない。
 運転席でシートにもたれていたハンスは、気だるそうに体を起こした。もうすぐ冬が近いが、今日は日差しが暖かくて、しかも時刻は昼下がりだった。眠い。
「なんだよ」
「あそこの男」
 ハンスがマイクの視線の示す方向へ目をやると、一人の男が別の男と何かを話していた。金髪の方はやたら色が白く、目がパッチリとしている。一言で言えば女々しい。
「俺たちの目の前で客取ってやがるぞあのホモ。いい度胸だ」
「ほっとけよ」
 ハンスは面倒くさそうに言うと、ハンバーガー・ショップの紙袋に手を突っ込んだ。引っ掻き回して、フライドポテトを引っつかんで口に放り込む。
「たまの事件のない日なんだから、もう少しダラダラしよう。あんな小物を引っ張ったって、唯でさえ忙しい取調の奴が可哀想だ。留置所にも空きがあるか分からない」
 ボトルホルダーからドリンクのカップを取って、溶けた氷を飲んだ。その様を見て、マイクが言った。
「やる気無いなぁ」
「性分なんだよ」
 警察無線がくだらない事件をノイズ混じりに報告してくる。中学生の万引き。その場でこってりと叱られて帰されるだろう、取るに足りない事件。
「ところで、ユリちゃんは元気? もうだいぶ大きくなっただろ」
 マイクが訊ねた。
「元気だね。英語も上手くなった。俺なんかよりずっと頭がいい」
「そうか。……もう5年だもんな」
「ああ」
 それきり会話は途切れた。ハンスは最後の煙草を灰にして、灰皿へと押し付けた。右手に持ったジッポーをかちゃかちゃと弄っている。
マイクは客と何か話しているホモをフロントガラス越しに見つめている。
「昔の話だが」
「ん?」
 ハンスが突然切り出した話に、マイクは慌てて反応した。
「うちに来たばっかりの頃かな。ユリが『大きくなったらわたしの生まれた国へ行きたい』って言ったんだよ」
「……で?」
「東ドイツは無くなった」
 ハンスはジッポーを手品のように手の中で回しつづけていた。客とホモが停めてある車の中へ消えた。
「もう少し早く連れてってやるべきだった。――もう遅いが」
「ユリちゃんがそう言ったのか?」
 マイクの問いに、ハンスはゆっくりと首を振った。
「あの子はそういう事は言わないんだ。俺には。ただ、どこかでそれを死って『無くなっちゃってたんだね』って一言。やっぱり寂しいだろうにな」
 ハンスはそう言うと、左手で煙草を漁り始めたが、さっき吸い尽くしてしまったのを思い出して舌打ちした。マイクが肩をすくめた。
「辛気臭い話聞いちまったな」
「街自体はまだ残ってるらしいから、いつか連れてってやろうと思ってる」
「……なあ、もう少し景気良い話しないか?」
 マイクが言って、先ほど男娼と客が消えた車に顎をしゃくった。ハンスは未練がましく煙草を漁っていた左手を灰皿から離して、
「煙草がちょうど切れてたんだ」
「おれもちょっと懐が寂しい」
 ハンスとマイクは顔を見合わせた。そしてパトカーを降りると、男娼が仕事をしている車に近付いていった。近くまで来ると、ハンスは腰から45口径を抜いて、マイクは警棒を抜き出した。  車の傍で身を屈めて、マイクは運転席側、ハンスは助手席側のドアに手を掛けると、一気に引き開けた。仕立てのいいズボンを下ろした中年男が眼鏡が飛び出しそうなくらいに目を剥き、体を屈めて客のものを舐めていた男娼が低いバリトンの悲鳴を上げた。
「動くなよ、薄汚いホモが」
 マイクが言った。男娼の方が反対のドアから逃げようとして、ハンスがいる事に気付いて諦めた。
 客だった男はそそくさとズボンを上げると、早口にまくしたてた。
「弁護士を呼んでくれ。君たちのやり方は乱暴だ」
「お前のやり方は猥褻だがな」
 マイクがそう言って小さく笑った。ハンスはできるだけ冷静に言う。
「ミスター。この国は同性愛者の権利は認めても公然猥褻は認めてないんでね。私があんたを引っ張れば事は表沙汰になるし、もうどこにも顔向けできないぞ」
「くそくらえ」
 男娼の方が忌々しげに吐き捨てた。ハンスは馬鹿にしたような笑いを漏らして、左手でその男の顎を掴み上げた。
「くそはお前だ。この男の物をしゃぶってやって幾ら貰ったんだ。言え」
「に、二百……」
 ハンスは拳銃を握った右手で男の頭をダッシュボードに抑え付けて、ズボンのポケットを漁った。ポケット越しに触れた男娼の固いものの感触に顔をしかめた。こんなになりながらおっ立ててやがる。
 百ドル札二枚をポケットから抜き取ると、それを自分の胸ポケットに捻じ込んでから抑え付けていた男の頭を離した。男娼は口の中で何かを呟きつづけていた。
「これで見逃してやるよ」
 マイクが言った。客の男は喚いた。
「こんなことが許されると思ってるのか!」
「おい」
ハンスがいつになく冷たい声を出した。男が振り向くと、ハンスは45口径の銃口を男に向けていた。
「煙草ないか?」
 今では男は恐れと屈辱で身を震わせていた。全身のポケットを調べ始めたその時、マイクの制服のエポレットに下げていた無線機から声が漏れてきた。
『C−59。C−59。どうぞ』
「こちらC−59。どうぞ」
 マイクの返事があって、警察署の女性オペレーターの声がノイズ混じりに言う。
『アーヴィン通りの角で銃の乱射事件発生。至急現場へ急行せよ』
「C−59。了解。仕事だとさ」
 最後の言葉はハンスに向けられたものだった。マイクが無線機のクリップをエポレットに引っ掛けて、すぐにパトカーの方へと走り出す。ハンスも銃をホルスターにしまってパトカーへ向おうとして、
「た、煙草は?」
 男がパッケージを震える手に握り締めていた。
「いらない」
 ハンスはすぐにパトカーに乗り込むとキーを捻って、サイレンを鳴らしながら路地を走り抜けた。





 事件の現場がどこかはすぐに分かった。
 一軒のレンガ色をしたアパートの前に、先に到着した何台ものパトカーが列を成している。どのパトカーもドアが開いており、警官はちょうどアパートから影になるようにパトカーの陰に隠れている。
 なぜそんな事をしているのか――ハンスが訝った直後、パトカーの屋根が鋭い音を立てた。続いてマイクの座っている助手席側のサイドウィンドウに銃弾が突き刺さり、ナビシートを貫いた。 「畜生、撃たれてるぞ!」
 マイクが悲鳴を上げて、ハンスはパトカーを止めるとサイドブレーキを上げてからドアを開け、車外へ飛び出した。続いてマイクが同じ運転席側のドアから這い出してきて、二人は車の陰に座り込んだ。さらに銃弾がボンネットを跳ねた。
 ハンスが腰のホルスターから45口径を抜き出しながら、
「結構過激な奴だな」
「冗談じゃねぇ。あと少しで車椅子だったぜ!」
「いっそ棺桶に行っちまえよ、マイク」
 そして自分達と同じように他のパトカーに隠れている警官達に向けて、
「犯人は!?」
 そう訊ねた。
「一人です! 三階の窓!」
 ハンスはボンネットの陰から素早く顔を出して三階の窓を端から端まで見た。そのうちの一つ、右端から五番目の開いた窓から男がショットガンを突き出していた。
 一瞬だけ、ハンスはその男と目があった。頭を刈り上げていて、頬が痩せた若い男だった。その男はハンスを見て驚いたかのように目を見開き、そしてショットガンの銃口をこちらへ向けた。  ハンスが頭を引っ込めるのと、ボンネットを12ゲージスラグ弾が跳ねるのはほぼ同時だった。
「現状はどうなってる!?」
 マイクが誰にとも無く叫び、誰ともつかない叫びが、
「付近一帯の応援を呼びました! あと市警のネゴシエイターとSWATバンも!」
「聞いた?」
 その言葉は、マイクに向けられたものだった。
「ああ」
「今月初めての出動だな」
「そんなに? ――この街も平和になったもんだ」
 犯人の男が何かを喚いた。妙な真似をすれば殺すとか、そんな意味の言葉だった。野次馬は遠巻きにこちらを眺めていて、乗り捨てられた車や慌てて停めたパトカーで道は埋まっていた。
「あいつ、殺すことになるのかな」
「さあな」
 ハンスは静かに45口径を膝の上に置いた。





 黒色に塗られたSWATバンが到着した頃には、パトカーの数は倍くらいに膨れ上がっていた。交渉専門のネゴシエイターも同時に到着し、バンの中にある電話を使って既に犯人との交渉を開始していた。
 犯人はヘンリー・パターソンと名乗り、そして自分が合衆国陸軍の人間であり、それから部屋の中には自分の妻と子供がいるとネゴシエイターに伝えた。
 同時に入った情報――イラクに駐留する原隊からの帰隊命令を無視している
 そして銃を持って立て篭もっている部屋は彼の家であり、両隣の住人からの話では何日か前から喧嘩が絶えなかったということ。
「つまり相手は12番のショットガンを持った、陸軍の戦闘マシンなわけだ」
 SWATバンの前で、スミティが言った。スミティは今年40歳になる黒人で、海兵隊で鍛えた太い腕に「Semper fi」という刺青を施している。その外見とは裏腹に、冷静で理性的な思考ができる人物でもある。
 だからこそ市警のSWAT隊員を纏める隊長の座についており、こうして隊員を前に状況を説明しているのだ。
 そして彼が前にしている男達――黒い難燃繊維でできたツナギと同じ色のタクティカルベスト、黒くスプレーを掛けたPASGTヘルメットに目出し帽を被り、思い思いの武器を持っている――その中に、ハンスとマイクが含まれていた。
 普段は何でもない町のお巡りさんな二人だが、実はSWAT隊員も兼任している。意外かもしれないが、SWAT隊員が出張るような凶悪犯罪が無い場合、彼らは普通の業務をしているものなのである。一騎当千の男達だといっても、普段遊ばせておくような余裕など市警にはない。
 ちなみに選抜試験などはあるものの、SWATは基本的に志願制であり、しかも給料はヒラの巡査と大して変わりはしない。つまりは危険なだけでメリットなど一つもないわけだが、英雄気取りや仕事にスリルを求める馬鹿、それにこうした仕事に意義を見出せる稀有な人間は案外少なくない。
「今はウチの交渉屋さんが話付けてるが、もし何かあった場合はおれたちが踏み込んで抑える事になる」
 スミティがそう言って、一目で適当に書き殴ったものと分かる廊下の見取り図を広げた。犯人の部屋の前の廊下の図だ。
「いつも通り行こうか。――ドアブレイカーがマルコス。ハンスがシールドを持って先頭。マイクはその後ろ、フラッシュバングをやれ。俺が後ろから続いて人質の確保。異論質問苦情その他何かあるか」
 マルコスが手を挙げた。目出し帽がなければ一目でラテン系と分かるこの男は、ドアを破る技能に習熟している。
「ドアどう開けます? 爆薬かラムですか? それともショットガン?」
「一階のドアを見て来いよ。犯人の部屋のドアも多分それと同じだ。その上で、お前が決めてくれ」
 マルコスが建物へと歩いていった。ネゴシエイターの乗るバンから猫撫で声が聞こえる。マスコミと野次馬の包囲網と、犯人のいる三階の窓。
「他に質問は?」
「はい」
 マイクが手を挙げた。
「犯人はどういった焼き加減で?」
 その言葉に、スミティに釣られてハンスも笑った。スミティは声だけは真面目に、しかし顔は笑いを堪えて歪めながら、
「レアだな。撃つんなら足だ。無傷ならなおいい。だがいいか、あくまでも俺たちは予防策だ。犯人の奴が交渉屋さんの説得に応じて出てきてくれるなら何もしないし、そうなった方がありがたい」
 マルコスが駆け足で建物から戻ってきた。スミティがそちらに視線を向けると、「大丈夫です」と言った。
「ラムで行きましょう。厚さも十分ですし、きっと綺麗に取れますよ」
「決まったな」
 スミティが言った。陽が傾いて、通りが影になっていた。





 壁一枚隔てた廊下。
 犯人がいる部屋のドアの脇に鉄製のシールドを持ったハンスがいる。右手にはいつもの45口径。ベストのポケットには予備弾倉が二個。貧弱な装備ではあるが、狭い空間では拳銃の方が優位に立てる場合の方がおおい。それに相手が一人の上に狭い空間での戦闘だから一弾倉分も撃たない筈だ。その後ろに並ぶマイクはヘッケラー&コッホ社製のMP5とフラッシュバングを手にしている。MP5は高性能のサブマシンガンで、高い命中精度と機能性を持っている。今はマガジンハウジングに付けられたクリップをベストのハーネスに引っ掛けて両手をフリーにし、手はフラッシュバングの安全ピンを握っている。フラッシュバングは閃光と大音響を発する非致死性兵器だ。
 そのまた後ろにはスミティが控えている。MP5を持ち、壁にぴったりと張り付いている。
 彼ら三人とドアを挟んで反対側にはマルコスがいる。手にしている大きな筒はブリーチングラムといって、先端でぶっ叩くと対象物に10トン近い衝撃を発生させる。それでドアを打ち壊し、そこにハンス達が雪崩込むという仕組みだ。
『いいか、もう一度確認するぞ』
 双方向通話に設定された無線機からスミティの声。喉に貼り付けられたスロートマイクが拾うぼそぼそとした声が、耳元のイヤホンから流れてくる。
『指揮所からのゴーが出たら突入。犯人の奴が出てきたらそれを囲んで外まで送る。オーケイ?』
「了解」
 ハンスは答えると、手にした45口径を握り直した。左手には鉄製の防弾盾を持っていて、これで後続の二人を犯人の銃弾から守るのだ。
 自分が張り付いている壁の向こうには犯人がいて、電話に向って何かを怒鳴っている声が小さく聞こえる。内容は聞き取れないが、その声の調子からは、
「奴さん相当キてますよ」
 それがひしひしと伝わってきた。
さらに時間は経過して、犯人の声が小さくなりつつあった。そして、部屋の中を歩き回る足音。  そして直後、再び怒鳴り声がした。
 今度は聞くまいと思っても聞こえる程の大声だった。電話に向って叫んだ声だとすれば、ネゴシエイターは果たして内容を聞き取れただろうか。
『やばいぞ』
 無線機が耳元でそう囁いた。指揮所の作戦指揮者だ。
『SWATが詰めてる事がバレた。お前ら気付かれるような事したのか!?』
「してねぇよ!」
 スミティの声。マイクがMP5のストックを肩に引き寄せて、マルコスがラムを構えた。
 犯人の声。怒声。スミティが堪らず訊ねる。
『HQ、突入した方がいいんじゃないか』
『待ってろ』
 怒声がヒートアップして、今やその断片的な単語すら聞き取れる。“いますぐこの淫売女とガキを吹き飛ばしてもいいんだぞ”。
『早まるなよ』
 念を押すように無線機越しにそう言われた直後、部屋から大きな銃声が響いた。
 無線から、明らかに取り乱したような空気を孕んだ雑音が飛び込んできた。続いて作戦指揮者の声。
『畜生、撃ちやがった! 撃ちやがった! 行け、突っ込め!』
 最後の言葉は、突入部隊の誰も聞いていなかった。銃声がした直後にマルコスがラムをドアに叩きつけた。吹き飛んだドアにマイクがフラッシュバングを投げ込み、ハンスは防弾盾を構えて拳銃を持った右手を突き出した。
もう一度ショットガンの銃声が鳴って、続いてフラッシュバングが炸裂する大音響に聴覚が麻痺した。
 全てが無音で進行した――ドアの残骸を盾で弾き飛ばす。犯人の姿が目に入る。ショットガン――銃口の先に血塗れの女。子供。犯人の見開かれた目。
 その目を見れば分かった。焦点は自分にしっかりと合わせられている。フラッシュバングの閃光は屁ほども効果を挙げていなかった。
 防弾盾の覘視孔越しに、男がショットガンを振り向けるのが分かった。同時にフォアグリップを前後させて、赤く大きな薬莢が飛び跳ねた。
 咄嗟にハンスは防弾盾を斜めに傾けた。12番口径の前ではこんな盾などブリキ板も同じだが、斜めにすれば弾き飛ばせる――かもしれない。
銃声は聞こえなかった。フラッシュバングの硝煙が口の中で鉄の味をさせていた。
 果たして防弾盾は鉛弾を斜めに弾いた。だが弾道を逸らされたスラグ弾は後続のマイクのヘルメットをかすめて、脳震盪を起こさせていた。
 それに気付かないハンスは45口径を三発、男が立っていた位置を大まかに狙って放った。大きくへこんだ防弾盾を捨てた直後、ハンスは部屋の中を見渡した。誰もおらず、床に女性と子供が血まみれで転がっていた。
 バン。銃声。
 それは別の部屋の方から聞こえてきて、銃を構えて銃声がした部屋を覗き込んだ。そしてハンスは、壁に開いた大穴を見た――なんて安っぽくて薄い壁だ! 装弾を替えて、九粒弾で撃てば大きく吹っ飛んでしまうほどの。
大穴の向こうは隣の住人が住む部屋だった。廊下に誰か待機させてきたか思い出そうとしたその時、ハンスはマイクが後ろについていない事に初めて気付いた。
「スミティ! 野郎隣の部屋へ逃げ込みやがったぞ!」
 ハンスが怒鳴った直後、どこかで銃声が何回か響いた。今いる部屋からは遠く離れていて、そこには例の男が持ったショットガンの銃声も混じっていた。
「スミティ!」
「落ち着けよ畜生」
 スミティがそう諌めた。ハンスは45口径の弾倉をイジェクトし、新しいものを詰めた。それからスミティがいる部屋へと戻ると、マイクが目を閉じて倒れていた。
「マイク!」
「畜生が。気を失ってるだけだ。この畜生」
 マイクが被っていたPASGTヘルメットはスラグ弾に抉られて、中のケヴラー繊維がぼさぼさになってはみ出していた。これのおかげでマイクは一命を取り留めたのだろうが、仇にもなった。ヘルメットに被弾したとき、顎紐をしっかりと締めすぎていたために首が思い切り後ろへ引っ張られていた。鞭打ちを起こしているかもしれない。
「HQ、HQ、今すぐ救急隊員を寄越してくれ。負傷者が三名だ。犯人は逃げた」
 スミティがそう無線へ話し掛ける最中、ハンスは傍らに転がる女性と子供に目をやった。女性の方は腹部をスラグ弾に抉られて、中身が背後の壁にべったりとくっ付いていた。誰の目にも死んでいると分かった。
 子供の方は、まだ十歳にも満たないような男の子だった。右の小さな膝関節から下が千切れて転がっている。命に別状は無さそうだが、これから一生そのことで苦労する事を思うと、ハンスは気が重くなった。低く呻き声を挙げたので、首に掛けていたモルヒネのシレットを一つ取り出して打ってやった。
「畜生が。子供まで撃ちやがった」
 スミティの声は感情を発露させるという事がなかった。だが、“畜生”を何回も言うのがこの男なりのショックの現れなのだろう。ハンスはそう思った。
「畜生。絶対に探し出してやる。子供を車椅子送りにした罰だ。電気椅子送りにしてやるんだ。なあハンス?」
 探し出してやる――その場で殺してやる。
 ハンスがそう思った直後、部屋へ担架を持った白衣の救急隊員達が雪崩れ込んできた。





 三時間後、署のデスク。満杯の灰皿の上にさらに新しい吸殻を捻じ込む。
 報告書――適当に済ませた。『待機中に部屋の中から発砲音が聞こえ、直後指揮官からのGOが出たので突入、犯人がこちらへ向けて発砲、マイク・ジェイコブ巡査が被弾。応射するも当らず、犯人は逃亡しました』
あれからの調査の結果、壁をぶち破って逃げた犯人は外に控えていた警官に二発発砲していた事が判明している。警官は無傷だったが、その間に犯人はどこかへ消えた。全国指名手配。
 スミティはあれからしきりに「畜生」を繰り返し呟いていた。極度の戦闘神経症。スミティと仕事をしてきて犯人を挽肉に変えた事は何度もあるが、何の罪もない市民がそうなるのを見たのは初めてかもしれない。
 罪もない市民――罪もない子供。
 足を吹き飛ばされた男の子は病院で一命を取り留めたらしい。足はゴミ箱へ。一生付きまとう車椅子と松葉杖。
 その病院にはマイクも運び込まれた。鞭打ち症でしばらくの入院ということだそうだ。
 犯人の全国指名手配書にざっと目を通した。ヘンリー・パターソン。二十七歳。陸軍の兵士。身長5フィート8インチ。体重165ポンド。髪の毛は茶色で丸刈り、目も茶色。『凶悪犯』のお墨付きと『見かけたらすぐに通報を』という文字もプリントされている。
 写真は軍から提供されたもののようだった。刈り上げたばかりの頭と、どこにでもいる若者の表情。だが、ハンスがさきほど現場で見たヘンリーの顔はそれとは似ても似つかなかった。
 海兵隊では『千ヤード先を見据える目』と呼ばれていた。戦争を通じて、自分の死のさらに先の、「何か」を見てしまった目。
 ヘンリーの目はそれだった。
 戦争に関わった人間は少なからず異常を来たすものだ。ベトナム戦争後、帰還兵が起こした犯罪が問題になったこともあるし、ハンスは戦争を未だに夢に見る――もしかしたら自分でも気付かない「異常」があるのかもしれない。
 この若者も戦争の犠牲者なのだろうか――戦争が精神にもたらす被害を知っているハンスにとって同情の余地はある。
 だがこいつは子供を撃った。自分の息子を。決して世俗の悪を見せ付けてはいけない子供に銃弾を打ち込んだ。無垢な子供から足を奪った。殺されて然るべき人間だ。
 自分はどうするべきだろうか。ハンスは考えた。
 仮にヘンリーを探し出したとして、その場で撃ち殺すべきか、司法の手に委ねて“戦争の犠牲者”としておざなりな刑に処するべきか。
「ハンス、ちょっといいか?」
 部長の声がして、ハンスはそちらに目を向けた。怒りを必死に押し留めた、歪んだ形相。
「仮にも天下のSWAT隊員ともあろう男が、なぜ犯人を取り逃がしたのかね?」
 報告書は提出したのに。「まさかあんな風に逃げるとは思いませんでした。それに外には他の警官も詰めてた筈ですが」
「彼らはただの警官だ!」
「おれだってそうですよ――ただの警官です」
 ただ人より銃を撃つのが上手くて、より高級な装備を持たされて、より危険な現場に送り込まれる類の人間――かつてベトナムで見た特殊作戦群の男たちのような。
「今、市民の安全が脅かされてるんだ。ショットガンを持った男がその辺を逃げ回っている。警察が取り逃がした、陸軍の殺人マシンがだ!」
 だからどうしろと言うのか。ハンスがそう問うでもなく、部長は答えを口にした。
「しばらくジェイコブは入院するそうだが、新しい人間が見付からなくてな。君にはしばらく一人で通常業務を行ってもらうことになる」
 つまり、自分ひとりでパトロールを行わなくてはならない――ショットガンを持ったヘンリーを見つけるために、一人で。
 そしてそれは、ハンスが望んでいた事でもあった。
「“犯人の捜索”は通常業務に含まれますか」
「無論だ。見つけたら首根っこ捕まえて連れて来い」
 見つけてやる。探し出して、見つけて――
 見つけて、どうすればいいのだろう。





 家へ帰ったのがひどく久しぶりに感じた。自分は間違いなく今朝ここで朝食を食べて、そしてその日のうちにここへ帰ってきたのに。
「おかえりなさい」
 キッチンからユーリエの声がした。それもなぜか何日ぶりかに聞く声に思えた。
「ただいま。学校はどうだった?」
「絵を描いたの。まだ色塗ってないから学校にあるけれど」
 つまりは平和な一日だったということだ。「へえ。出来上がったら見せてくれよ」
「うん」
 ひどく辛い会話だった。ハンスが午後のティータイムに死の危険に晒されていた時に、ユーリエは学校でクラスメイトとおしゃべりしながら絵を描いている。
 戦闘から帰ってきた人間が壊れていく会話。自分が血と泥の中を這い回っていた時間を平和に過ごしていた家族が羨ましくなり、それは憎しみへと変換される。
 ヘンリーは休暇で帰ってきた最中だったが、彼も同じような事を感じていたのだろうか。ユーリエがキッチンへと戻って鍋をかき混ぜる――どこにも戦争や戦闘や死といった影は見受けられない。おれがあと少しで死にそうな目にあった日だっていうのに!
 そう思った直後、ハンスは自分を恥じた。何を馬鹿な。お前は自分の感じた緊張や恐怖を何かに擦り付けようとしているだけじゃないか。
「ユリ」
「うん?」
「悪かった」
「何が?」
「――いや、いろいろ」
 ユーリエは首を傾げて、そして笑った。
「へんなの」
 その笑顔の純真さを世間の汚いものから守るために、ベトナムで、数多くの事件で、そして今日、自分は傷ついてきたのだと思った。
 そう思えば、何でも耐えられると思った。




(まだ終わりません)



戻る