当然の事ながら、街の治安が良くなければ小学校の風紀も宜しくない。
 よろしくないが所詮は小学生で、大それた事をするような度胸もなければ刺青や痛いこともまっぴら御免という状況で、せいぜい先生に隠れて煙草を吹かしたり、みんなで集まって万引きしてきたいわゆる“いやらしい”をこそこそ読む程度である。
 そんなわけで、ユーリエは優等生だった。成績はBとCが半分づつとAが一つ二つある程度だが、この小学校の中では「品行方正」というだけでも貴重な存在なのだ。
 この清ました生意気な女をどうにかしてやろうという子供も少なくなかったが、それはユーリエがドイツ人だということで歯止めが掛かっていた。外国人をいじめると必要以上のとばっちりを食うことを、彼らはよく知っている。
 つまり、ユーリエはこの界隈にあって、珍しく普通の小学生だった。
「ユリ?」
授業が終わって鞄に教科書を詰め終えた時、ユーリエは後ろの席のカリン・ボシェーロに声を掛けられた。カリンはフランス生まれのアメリカ育ちで、同じくネイティヴでないユーリエともよく気が合う友達だった。
「今日家に来ない? お母さんと一緒にクッキー焼くんだ」
ユーリエは笑って、しかし、
「ごめん、今日は駄目だよ」
「なんで?」
「晩ごはん作るの。この前本でおいしそうなの見つけたから」
「晩ごはんって……まだ3時じゃない」
「帰ったら材料買ってずっと煮込むの。ハンスさん帰ってくるまで」
その言葉に、カリンはふーんと呟きを漏らす。そして、
「ハンスさんって?」
「……何だろう。義理のお父さん? ほら、わたしお父さんもお母さんもいないから」
「どんな人?」
「ええと」
そして少し考えて、ユーリエは言った。
「すごく優しいお巡りさんだよ」


その頃、優しいお巡りさんのハンスは裏路地で売人を小突いている最中だった。
「動くなって言ってるだろ」
売人は壁に押さえつけられて、警棒で左肘の関節を固められている。足元には白い粉の包みが路面に散らばっている。
ハンスが腰のポーチから手錠を取り出すと、まず左手にそれを掛けた。そして膝の裏を靴底で蹴って跪かせると、右手にも掛けてロックした。
「おい! まだ誰にも売っちゃいないぞ!」
「分かってる」
ハンスは落ちていたコカインの包みを拾い上げると、それを手の上で弄びながら静かに言った。 「別にお前を捕まえようとか、そういう事は考えてない。ただ頼みを聞いてもらいたいだけなんだ」
「これが人に物を頼む態度か?」
売人はそう喚いた。その売人は浅黒いラテン系の顔をした若い男で、口髭を生やしていた。
「頼みを聞いてくれないならそれでもいい。けどな」
そう言って、ハンスは手にしたコカインの包みを指でつまんで見せた。
「そうすると、お前はこれを小学生に売りさばいていたことになる。誰もお前の言う事なんか信じやしない」
「汚ねぇぞ!」
「お前ほどじゃないさ。で、どうする? 頼みを聞いてくれるか」
「頼みにもよるぜ」
 強がってはいるが、その顔からは「罪を着せられるくらいなら頼みを聞く方がマシだ」と思っていることが読み取れた。
ハンスは一つ頷くと、言った。
「ヘンリーの居場所だ」
「誰だって?」
「ヘンリー・パターソンだ。この前の事件の」
 そう言うと、売人の顔に信じられないといった表情が浮かんだ。
「あんた馬鹿か? あいつの居場所を何で俺が知ってるんだよ」
「知らないなら探せよ。そして分かった事を俺に教えろ」
「おい、」
「行くか? ブタ箱」
 一切の反論を受け付けないハンスに嫌気が差したのか、売人は言葉に詰まって首を振った。
「分かったよ。やるだけやってやる。捕まるよりいい」
「よし。この包み(パケ)は返してやる。だが俺の言った事をきちんとやれよ」
「ああ、やるよ。だから早く外してくれ」
 ハンスは手の中の包みを売人のジャケットのポケットに突っ込むと、後ろに回ってゆっくりと片手の手錠を外した。外した瞬間に攻撃されないように、左肘の関節を極めながらもう片方を外した。
 手錠を外し終えると、ハンスは売人を突き飛ばした。一度裏路地の汚い地面に転がって、売人はすぐに立ち上がった。
「行けよ。だが俺はちゃんと見てるからな。きちんと知らせに来なかったら――お前を捕まえる。罪をでっち上げてでも後悔させてやる」
 売人はなにも言わずに走っていった。


 事件から一週間が経って、パターソンが起こした事件は新たな事件に埋もれるようにして風化しつつあった。
 ハンスの訳の分からない強迫観念――パターソンを逃がすな。街中のチンピラを片っ端から掴まえて、自分のバッジを見せてから紳士的に“お願い”する。
「ヘンリーの居場所を探して、俺に教えろ」
 そうやって仕立てた“犬”は、この一週間で両手の指以上になった。あてには出来ないが、ないよりは良いという程度の仕掛け。
 今のところ、どの犬からもパターソンが見付かったという話は聞かれなかった。






事件のあった次の日曜日に、ハンスとユーリエはマイクを見舞いに病院へ行った。
「大きくなったじゃないか」
ギプスで首を固定されたマイク。その病室にはベッドが六床あって、消毒液の匂いと病人の体臭と昼食の匂いが漂っていた。
「俺のこと覚えてる?」
「うん、ハンスさんのお友達でしょ?」
偉い偉いとユーリエを撫でるマイクを無視して、ハンスは面会用の椅子を部屋の隅から二脚持ってきてベッドの前に置いた。そこに腰掛けて、
「料理も上手くなったんだ。またいつか家に飯食いに来いよ、マイク」
「へぇ、ユリちゃん料理上手いんだ?」
「うん」
「見た目は奇抜なんだが、どうしてなかなか味は良いんだ」
「治ったら食いに行かせてくれ――いつになるか分からんが」
 全員の笑い。隣のベッドでラジオを聞いている老人が迷惑そうな顔を向ける。
 話題がユリの学校についての話になる。英語が上手くなった、算数が得意だという他愛もない、平和な話題。ハンスは五分ほどそうした話題に加わりながら、笑い、話し、そしてこう切り出した。
「マイク?」
「何?」
「ちょっと用事を思い出した。しばらくユリの事見ててくれるか」
「構わない」
 マイクが答えるのを聞いて、ハンスは椅子から立ち上がった。
「ユリ、マイクとお話しててくれ。すぐ戻るから」
「わかった」
 病室を出た足で、病院のナースステーションまで行った。眼鏡を掛けた黒人の看護婦がペーパーバックを読んでいた。
「人を探してるんだが」
看護婦が本から視線を上げた――どことなく鋭い感じのする目。
「ここの患者さん?」
「そうだ。ロナルド・パターソンっていう男の子なんだが」
看護婦は椅子をくるりと回してコンピュータに向うと、キーボードを打ち始めた。十秒ほどしてから、
「ちょっと待っててくださいね」
さらに二十秒、白衣と黒い肌が縞模様を作っているのをぼんやりと眺めていると、
「五階の5035号室――集中治療室から出たばかりだけど、面会できるようよ」
「どうも」
ハンスがは短く礼を言って背中を向けると、看護婦は呟くように訊いてきた。
「あら。この子、この前の事件で担ぎ込まれた男の子よね。――あなた、誰?」
看護婦の疑いの目。黒い顔でそれだけが白く輝いている。
誤魔化そうかと一瞬迷った。
「……警官だが」
「事情聴取なら駄目よ。帰って」
「そうじゃない。今は非番だし、単なる見舞いだ」
「ヘレン? いる?」
 ハンスが言うのも聞かずに、その黒人の看護婦はもう一人の看護婦を呼んだ。
「この人、5035に面会したいんだって。付いてってあげて」
「いや、別に一人でも――」
「こちらへ」
 取り付くしまもなかった。
 ハンスは金髪の白人の看護婦に導かれるままにエレベーターに乗り、5階へと向った。


 看護婦の見張り付きの面会。
 5035号室は一人用の個室で、壁に埋め込まれたセンシング用の端末と、それに繋がれた小さな小さな身体――それを覆う白い毛布は、右足の部分が不自然にへこんでいる。酸素マスクの排気音がやたら大きく聞こえた。
「五分程度にして頂けますか。あと、負担になるような話題はつつしんで頂かないと」
 そんな話をしに来たわけじゃない。それを分かって欲しかったのだが、看護婦の疑いの目は粘つくようだった。
 どこかで感じたような感覚――疑いの目。ベトナム。現地民がアメリカ兵に向けた恐怖と敵意の入り混じった目と同じ色だった。
 違う。自分は悪意ある人間じゃない。あんたに危害を加えるつもりもない。分かってくれ。
 あの時は誰も分かってはくれなかった。今も。
「だれ?」
 こもった声がして、ハンスはベッドの上に横たわる子供を見た。ロナルド――パターソンの息子。松葉杖の新しいお友達が出来た可哀想な子供。
「お見舞いだよ、ロン」
 酸素マスクの排気音――小さな目は虚ろに開いて、ハンスを見つめている。
「元気かい?」
「――ママは?」
 振り返る。看護婦の目――「ごまかして」――顔を戻して、笑いながらロナルドに語りかける 「元気だよ。まだ起きれないけれど」
 向けられたロナルドの目は、疑いの色を湛えていなかった。その純粋さに、嘘をついたことに、ひどく胸が痛んだ。
「――パパはどうしてママを撃ったの?」
 ロナルドは、そう訊ねた。
「なんでだろうね。訊いてみないと」
 理由は分かっていた――おぼろげに。
 だが、子供を傷付けていい理由には足らない――子供を傷付けていい理由などどこにもない。ハンスはそうも思う。
「――ねえ、パパはどこ? パパはどこにいるの?」
 そう言ったロナルドの目には、明らかな悲しみが見てとれた。子供が見せる直接的な感情――父親に会いたい、という願望。
「寂しい?」
 ハンスがそう訊ねると、ロナルドははっきりと頷いた。
 自分を傷付けた父親に会いたい――もしかしたら父親が自分から右足を奪ったと認識できていないのかもしれない。或いは、自分を傷つけた父親であっても会いたいと願っているのか。
 だが、ロナルドの目からこぼれた涙は、その願望が強いものであることを物語っていた。
「ぼく、パパに会いたいよ。ママと仲直りしてほしい。ママと……」
 ロナルドが泣き始めたので、看護婦は歩み寄ってきて「もうこれくらいにしてくれませんか」とハンスに言った。そしてロナルドの頭を撫でてあやし始める。
 ハンスは静かに病室から出た。誰も居ないリノリウムの廊下を歩きながら、パターソンを殺すのか、生きたまま捕まえてロナルドに会わせ、残りの一生を檻の中で過ごさせるかを考えていた。


「おかえりなさい」
 マイクの病室に戻った時、ユーリエはそう言ってハンスを出迎えた。
「遅ぇよ。お前がいない間に、ユリちゃんとお前の愛溢れる生活をしっかり聞かせてもらったぜ」
 マイクはそう言って笑おうとしたが、ハンスが鋭い視線を向けたので黙った。ユーリエは椅子に座って足をぶらぶらさせている。
 ハンスはポケットから硬貨を取り出して、それを数えながら、
「――ユリ、自販機でコーヒーか何か買って来てくれないか?」
「ん? いいよ?」
 マイクが目を向けて、ハンスはそれを見つめ返した。マイクは頷いて、ベッド脇の棚から財布を取り出した。「悪いけど、俺の分も頼めるかな。――ユリちゃんの分も買って来ていいよ」
 ユリは椅子から立ち上がって、小銭を受け取るとスカートのポケットに入れて病室を出ていった。ハンスは椅子を引き寄せて座り、マイクは一つ息を吐いて、そして言った。
「何かあったのか」
「あいつの子供に会ってきたよ。……父親に会いたいとさ」
 ハンスの言う“あいつ”が誰なのか、マイクには訊ねるまでもなかった。
「俺は子供を傷付ける奴は誰だって許さなかった。子供を守るためなら何だってしてきた――その子供が会いたいと望むなら、俺はあいつを生かして捕まえなきゃならないのかな? どう思う」
「捕まえるだけじゃ不足か?」
 マイクの問いに、ハンスは唇を噛んで腕を組んだ。眉間に皺を寄せたその表情は、年齢通りの老いを感じさせた。
「――俺が子供に執着する理由を話したっけ」
「? いいや」
「俺とお前の間でまだ話してない事があったとはな」
 ハンスはそう言って、ひとしきり笑った。マイクは黙っていた。
「大した理由じゃないんだがな。俺がベトナム帰りだって事は話したよな」
「ああ」
「俺はあの戦争で色々と人間の汚い部分を見てきた――精神的な意味でな。人間がどんなに酷い事ができるか目の当たりにした。敵も味方も、どうしてあんなに酷い事ができるのか分からなかった。そのうちに俺も酷い事ができるようになった」
 “酷い事”の内容をハンスは具体的に話さなかったし、マイクはそれを訊ねようとしなかった。
「人間は汚れるものなんだと思う。……遅いか早いかの違いだけで。ただ、誰だって子供だった頃があったはずだ。無垢な子供な時代が。……多分、俺にも」
 そこでハンスは大きく溜息をついた。そして続ける。
「そう思うと、純粋な子供はどうしても守りたくなる。どうせいつかは碌でもない大人になるんだろうが、だからこそ守ってやりたくなるんだ」
「――あんたに子供の頃があったってのが一番驚きかな」
 マイクもハンスも揃って声を上げて笑った。力のない笑いだった。
「庇護欲が強すぎるだけかもしれないな」
 ハンスが呟いた。
「ユリちゃんを引き取ったのもその為?」
「あれは……どうだろうな。多分そう――いや」
 そこでハンスは苦労して言葉を選びながら、言った。
「俺は多分、家族が欲しかったんだろう」
 マイクは、何も言わなかった。
「戦争から帰ってから親父もお袋も俺と顔を合わせようとしなかったしな。俺だって元々出来た息子じゃなかった。結婚もしないうちにいつの間にかこの年になってた――そうしたら急に家族が恋しくなった」
「だから――?」
「だからユリを引き取った。どっかの新聞だか機関紙で“九歳の孤児の娘がいる”って広告があったのを見て、それで決めた。可哀想だとか思ったわけじゃない。ただ、家に誰か居て欲しかった」
 隣のベッドの老人は、ラジオを点けたままひどい鼾をかいて寝ていた。筋張った腕の浮いた血管に点滴針が突き刺さっていた。
 マイクはベッドに横になると、天井を見上げながら言った。
「――あんたも人間だよな」
「何?」
「いや、いつものあんたを見てると時々怖くてさ。子供の絡んだ事件には異常な執着を見せるし、そうしたことにはとことん冷酷になる。でもそれがどうしてかを知ったら、あんたも普通の人間なんだと思った。――うまく説明できないけどな」
 その時、小さな両手に二人分のコーヒーとコークの缶を持ってそろそろと歩いてくるユリの姿が見えた。
「おいおいおいおい」
 ハンスは椅子から立ち上がると、コーヒーのカップをユリの小さな手から取り上げた。
「ごめん。トレイか何か無かったのか――無理させた」
「大丈夫だよ? ちょっと怖かったけど」
「ユリちゃん、お疲れ様」
 そう言って体を起こそうとしたマイクは、
「痛て」
 首に力が入った瞬間にそう呻いて再び枕に沈んだ。
「気をつけろよ馬鹿。ほら」
 ハンスが手を貸して起こすと、コーヒーのカップを手渡した。ユリは椅子に座りなおして、コークの缶のプルタブを開けていた。
「ユリちゃん」
 マイクは首の痛みに顔をしかめながら、訊いた。
「ハンスは優しくしてくれてるかい?」
「うん」
 ユリは間を置かずに答えた。なぜかハンスは急にこの少女が愛おしくなって、「よく分かってるじゃないか」と笑いながら頭を撫でてやった。





 勤務時間を終えて、パトカーを警察署の駐車場に停めた。
 デスクへ向かって報告書にボールペンを走らせる。“特になし”“特になし”――時折、適当に喧嘩を仲裁したなどと書いてリアリティを出す。ちょうど答案を丸写しする際に、わざと間違えるような感じで。
 三本目の煙草を灰にした時、部長がどこか不機嫌な様子でやってきた。といっても、この男が上機嫌な所を見たことがないが。
「今日は何もなかったのかね?」
連日の報告書を疑っている口調――心臓が自然に鼓動の回数を増す。それを表情に出さないようにして、うわべだけの平静さで答える。
「ええ、何も。……ああ、犬と猫の喧嘩がありましたが、それも書いておくべきですか?」
「パターソンの事か?」
 会話の前後を無視して部長が切り出した。ハンスのボールペンを走らせる手が止まった。
「何の話です?」
「とぼけるな。色々と影で嗅ぎ回ってるのは知ってるぞ。この街の裏事情に詳しいのがお前だけとでも思ってるのか? お高く止まった私が路地裏のチンピラに通じていないとでも?」
 もちろん思っていない。が、部長がそこまで鋭いとも思っていなかった。
 ハンスは隠すのを止めて、ため息をひとつしてから話し始めた。
「街のチンピラ共に探させてますよ」
「どうやって手懐けた?」
 違法行為を見逃してやった見返り
「紳士的に話し合いで」
「はっ」
 部長は嘲った調子の笑い声を漏らして、それから気難しい顔に戻った。教師が出来の悪い生徒に接する時のような表情に。
「……お前は何をこだわってるんだ? 確かにパターソンは凶悪犯だが、この街じゃそれ一つに集中できるほど暇がないんだ。昨日だって強盗が七件だぞ。お前にも警邏を徹底的にするように言ったはずだが」
ハンスは何も言わなかった。咥えていた煙草の灰が制服のズボンに落ちた。部長はズボンのサスペンダーを親指で引っ張っている。
「お前はただの巡査だ。刑事じゃない。チンピラとお話するのも悪くはないが、他にやる事があるだろう。分かるな?」
「ええ。分かりますよ」――理屈の上では。
「それと、パターソンの事件についてだが」
 部長はそこでなぜか言いよどんだ。ハンスは煙草を灰皿に押し付けて、次の煙草を咥えてライターを取り出した。
「フェドが動くらしい」
 ライターのホイールを回そうとした指が止まった。
 フェド――Fed。連邦捜査局を示す隠語。
「こんな片田舎のちっぽけな事件に?」
「パターソンが陸軍の出だからさ。これ以上あのどうしようもない男に事件を起こさせると、軍部が余計な批判を受けることになるしな。早く処理したいらしい」
 部長は暗に「奴らの邪魔をするな」と言っているのだった。
「事件を横取りされて黙ってるんですか」
「相手は連邦だし、そもそもお前の事件じゃない」
 ハンスは、そこでようやく煙草に火をともした。
「確かにね」
「つまり、もうお前の出る幕じゃない――というより、元からお前の出る幕はなかったんだ。それよりも処理しなきゃいけない事件がいくらでも転がってるだろう。なぜそこまであの陸軍の馬鹿にこだわる?」
 奴が自分の息子を撃ったから 
「分かりました」
「何を分かった?」
「自分の仕事です」
「よろしい」
 部長は一つ頷いてから笑った。ハンスも笑みを返した。
 うわべだけの笑いだった。





 勤務時間が終わるまでになんとか報告書を片付けた。
 別に家に持って帰って記入しても構わないのだろうが、何故か嘘だらけの書類をユーリエの居る家で記入するのが躊躇われた。 自分を正義の権化としての警官だと信じているユーリエの前で、そんな事をする勇気がなかった。
「ただいま」
 靴を脱ぎながら、キッチンまで届くような声でハンスは言った。
「おかえりなさい」
 ユーリエの声が聞こえて、それから鼻歌が聞こえた。料理をしながらユーリエが唄う、どこかで聞いたことがある童謡。以前買ってきてやったオルゴールの旋律だった。
「機嫌いいね」
「え? そう?」
 ハンスは鞄を置いて、コートを脱いだ。部屋のソファに座ると、大きく溜息をついた。ユーリエは相変わらず鼻歌を唄っている。
「今日の夕飯は何?」
「鶏のコーラ煮」
 一瞬だけ時間が止まった。
「……ああ、そう」
 聞いただけで胸焼けしそうなメニューに苦笑いして、ハンスはソファの背もたれに後頭部を預けた。そして、パターソンの事について考え始めた。
 探して捕まえる――そこまではいい。犯罪者であるからには捕まえなければならないし、自分は仮にも警官なのだから。
 だがその先は? 捕まえてどうするのか。
 自分は今まで、子供を傷つけた犯人に容赦しなかった。今度もそうするつもりだった。
 だが、その子供が犯人の――自分の父親の死を望まないとしたら、自分はどうするべきなのか。
 選択肢は三つ。FBIの手に委ねるか、その前に生きて捕らえるか、或いは自分の手で――
 
 キッチンから鶏肉を煮るコーラの匂いが漂ってきて、その甘ったるい香りに思考が遮られた。相変わらず鼻歌が聞こえるところを見るとユーリエはこの匂いが平気らしいが、ハンスにはどうにも耐えられなかった。
「換気扇点けた?」
 すぐさまキッチンから、
「点けてるよ」
 そして、換気扇が回り始める音。
 素直に回してなかったと言えばいいのに。
 また苦笑いしながら、再びソファに身を沈める。ハンスはこうしたごく自然な家庭的な香りのする会話が大好きだった。今までのような、ハンスがベトナム戦争に従業したことのある人間だと知って妙な気を使ってくれる関係ではない、ハンスがただのお巡りさんだと思って接してくれるユーリエの存在がありがたかった。
 ふと思った。
 パターソンには、こうやって接してくれる人間がいたのだろうか。

 奴に同情したくなかった。
 犯罪者が罪を犯すに至った経緯に理解を示したくなかった。
 それなのに、ハンスは思うのだ――もしかしたら、パターソンも戦争で何かを見たのではないかと。ベトナムではなく、湾岸で。
 千ヤード先の何かを。
 もちろんそれが犯罪を犯していい理由になどなりはしない。だが、戦争が人の心に何をもたらすか、ハンスは身をもって知っている。それが犯罪と容易に結び付くことくらい想像できる。ハンスですら、ベトナムから帰った直後には何度か警察に迷惑を掛けたことがある。
   なぜ戦争帰りはやたら犯罪を犯すのだろうか。
 或いは、もしかしたら自分もパターソンのような犯罪者になっていたのでは?
 奴は湾岸/自分はベトナム。奴は英雄で自分は赤ん坊殺し。それでも自分は立ち直った――奴は未だに戦争の泥沼にはまったままだ。
 自分は奴を戦争の闇から助けてやるべきなのか?
 それとも掛け値なしの極悪人として殺すべきなのか?
 相反する思考とコーラの煮える匂いに胸がむかついた。

 その時、キッチンから聞こえてくる鼻歌に歌詞が混じり始めた。
 ドイツ語だった。
 ハンスは飛ぶような勢いでソファから身を起こした。
 その意味が分かったからではない。ハンスはドイツ系というだけで、これっぽちもドイツ語が話せない。だが、ユーリエが口ずさんだその単語だけはしっかりと聞き取れた。

『ヘンシェン』

 頭の中を脈絡の無いベトナムの記憶が奔走していた。
 ユーリエが知らないはずの名前。かつてのベトナムの人殺しの仇名。
 どうして知ってる?
「今の歌、何だ?」
「え?」
 ハンスの声に尋常でない様子を感じたのか、いつもと違う緊張感を帯びた声でユーリエが答えた。
 それに構わず、カウンター越しにハンスはさらに尋ねた。
「今の歌」
「え、あ、あのオルゴールの歌だけど」
「――この前買ってきた?」
「うん」
 その時ユーリエは鶏肉のコーラ煮を皿に盛り付けていて、その皿二つをトレイに載せているところだった。
 それを居間のテーブルへと運びながら、ユーリエは続ける。
「『ヘンシェン・クライン』っていう歌。お母さんに教わったの」
 ただの歌の題名だ。自分の名前などではない。
 自分の昔の仇名を知られたと思ったハンスは、密かに安堵の溜息をついた。
「そういう名前の歌なのか」
「英語だと何て言うのかしらないけど、“向こう”だとこういう歌だった」
「へぇ。で、どういう意味の歌詞なんだ?」
「えーと、」
 ユーリエはしばらく考え込んで、何回も「えーと、えーと」と繰り返していた。
「ハンスっていう男の子の話で――あ、ハンスさんと同じ名前だね」
「いいから。それで?」
「えっと。……ハンスっていう小さい子が、世界中を旅するお話。帰る頃には大きくなってて、誰もそれがハンスだって分からないの。――妹でも」
 童謡によくある種類の嫌な歌だ。だが、ユーリエはさらに先を続けた。
「でもね、お母さんだけはハンスを覚えてて、『おかえり』って言ってくれる。そういう歌」
「ふぅん。――変なこと訊いたね。ごめん」
 ユーリエはきょとんとした表情になって、それから笑って、
「これ。持ってって」
 手にしたボウル皿をハンスに手渡した。あまりにもあからさまなコーラの色に鶏肉がごろごろと浮いた皿で、甘ったるい匂いと肉汁の匂いが混じった臭気が立ち上っていた。


 いつでもそうだが、意外に味は良かった。
 食べ終わった後にハンスが感想を正直に述べると、なぜかユーリエは首を傾げながら、
「作っておいて何だけど――あんまりおいしくないね、これ」
「そう?」
「甘すぎる」
「美味しいけれどな」
「食べる?」
「要らないならもらう」
 食べかけの鶏肉をユーリエの皿から取って噛み付いた。匂いさえ気にしなければ、肉も柔らかいし味もそんなにおかしくない。
 だがユーリエは気に入らなかったようだった。
 

 食後。部屋で机に向かい、転がったままの電気ヒーターに火を入れて、足の先を暖めながら『アルジャーノンに花束を』を読んでいた。
 ハンスに学がないせいもあるだろうが、それを差し引いてもこの本は読み辛い。知恵遅れの主人公が書く「経過報告」を主として書き綴られる文章なのだが、精神遅滞を演出するために幼稚な綴りの間違いが織り込まれていて、その単語の本来の意味を考え込まなければならない事が何度もあった。
 かといって、本を読むのは嫌いではない。かつてティム・オブライエンの著書が自分の戦争の体験との折り合いを付けるのに大きな役割を果たして以来、ハンスは積極的に本を読むように心がけていた。
 老眼鏡越しの活字。部屋は卓上灯の白い光だけで淡く照らし出されている。
 ちょうどページをめくった時、ドアのノックの音が響いた。
「ハンスさん?」
 ハンスは椅子ごと振り向いて、老眼鏡を外してドアの方を見た。
「入っていいよ」
ドアが開くと、ユーリエの小柄な影がそこにあった。柔らかい厚手のコットンのパジャマを着て、手には一枚の紙を持っている。
「学校からのお知らせ?」
「ううん。これ、」
 そう言って差し出された紙はノートを1ページ切り離したもので、何かが書き付けてあった。ユーリエから歯磨き粉の匂いがした。
「あのオルゴールの歌の歌詞。なんだかハンスさん気に入ったみたいだから、英語に直してみたの」
 ハンスが再び老眼鏡を掛けてその紙を見ると、そこにはドイツ語と英語の二つが対訳の形で書かれていて、『Haenschen klein』の隣に『Little-Hans』と書いてあった。
「……下手かもしれないけど」
 そういって、ユーリエは恥ずかしそうに俯いた。
「わざわざ訳したの?」
「うん」
 言うべき言葉が見つからなかった。訳すという行為を誉めるべきなのか、自分の為にしてくれたことに対して礼を言うべきなのか。
「――ありがとう」
 結局そう言った。ユーリエはその言葉で表情を和ませて、
「どういたしまして」
 そう言うと、ハンスの頬におやすみのキスをして部屋から出て行った。
 ユーリエの頬が当たって老眼鏡がずれた。





 小さいハンスちゃんは広い世界へ旅に出た。
 杖と帽子が似合っていてとても気持ちがいい。
 だけどお母さんはとても泣いている。ハンスちゃんはもういない。
 「どうか幸せにね」お母さんが言う。「はやく帰っておいで」

 七年が過ぎて、外国人になったハンスは故郷を思い出した。
 子供のときの事を思い出して、急いで家に帰った。
 けど、かわいいハンスちゃんはもういない。彼は大きいハンスだ。
 誰かハンスだと気付いてくれるだろうか。

 1、2、3、ハイ! ハンスが通り過ぎる。誰も彼のことが分からない。
 妹が言う。「どちらさま?」 お兄ちゃんが分からないんだ!
 だけどお母さんが来て、ハンスを見るなり
 優しくこう言った。「ハンス、わたしのかわいい子! おかえりなさい!」




   小さいハンスちゃんの母親はきちんと息子の顔を覚えていなかった。
 戦争から戻ってきた小さいハンスちゃんの知り合いは皆、彼を赤ん坊殺しと罵った。




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