いつかはもとより、どこでの話だったかすら思い出せないが、ごくありふれたベトナムの村だった事だけは覚えている。北ベトナム軍のシンパだと疑われた村で、そこの村へ入った時に小規模な戦闘が起こった。
 ハンスは小さな小屋へ押し入った。乾した植物で出来たドアは思いのほか柔らかく、中にはAK小銃を構えた男の子の姿があった。ひどく怯えた顔をして、手にした4kgの重さに銃口が意味も無く宙を彷徨っていた。
「落ち着け」
 ハンスは言った。構えていたM16の銃口を下に下げて、左手の掌を見せて万国共通の「落ち着け」のポーズを取る。
「落ち着いて、銃を置け。ほら、いい子だから。ほら!」
 直後、その男の子の顔が爆ぜた。
 一発目が頬から入って後頭部の肉をごっそりと吹き飛ばす様を、ハンスはしっかりと見た。男の子は驚いたように身を強張らせて、続いて飛来した二発目がその小さな体を土間に倒れさせた。
「危なかったな」
 ハンスが振り向くと、小屋の入口に小隊の仲間がいた。彼はM16の構えを解くと、未だに子供を制止しようとして掌を見せるハンスの肩を叩いた。
「ヘンシェン、大丈夫か?」
「…………」
「おい、ヘンシェン」
 それでもハンスが茫然自失とした状態を脱しないので、彼は肩をすくめて行ってしまった。小屋は薄暗く、入口から差し込む陽光が半分だけ中を照らしていた。その影と光の境界線に、男の子の小さな身体は横たわっていた。ハンスは呆けたように口を開けて、それを見下ろしていた。ふと、少年の命を奪った男のことを責める事は出来るだろうかと考えて、すぐにハンスは思い直した。その男の名前は覚えていなかった。彼はそれからすぐに、バウンシング・ベティを踏んで穴だらけになって死んだ。
 長い間、ハンスはもう死体以外の何物でもないものを見下ろしていた。
 しばらくすると、その死体の顔はヘンリー・パターソンの息子、ロナルドのものへと変化した。次いでそれはユーリエのものへと代わって、大部分が赤黒く変色した顔の中でそこだけが不自然に綺麗な口が笑いの形に歪む。
 ハンスの口から絶叫が飛び出した。







 目が醒めて、ハンスは激しく息を喘がせながらベッドの上に身体を起こした。そしてここが1968年のベトナムでないことを確認し、自分が50歳を過ぎたハンスであることを確かめてから溜息をついた。汗ばんだ身体に朝の冷気が心地よかった。
 吐き気を堪えるように口を手で覆いながら、夢の内容を思い出す――内容なんて呼べるものは何もないような気がした。今から何十年も前の、地球の裏側で起こった、時間にして一分にも満たなかった出来事。ただ一人の子供が死んだだけの出来事。
「……くそったれ」
 寝汗を拭いながら、家ではなるべく言わないように気をつけていた言葉を吐き出した。 忌まわしい過去を夢に見てしまう自分がどうしようもなく情けなかった。本当は早く忘れてしまいたいくせに、年寄りが自分の人生を正しいものと思い込むように、それを善いものだと信じて抱え込んでいる――あのクローゼットの中にある秘密のトランク中に。
 だが、過去と切り捨ててしまうには、ハンスの人生はあまりに単調すぎた。あの戦争以外には、ハンスの中には何も存在しないも同然なのだから。
 全てを忘れてしまえたらどれだけ良いだろう。ただの警官として、夜にうなされる事なく眠る事が出来たら。
 ユーリエの事が少しだけ羨ましかった。かつて共産主義の最も醜い面を目の当たりにしていながら、その事をおくびにも出さない。過去に捕われることなく今の生活を心の底から楽しんでいる。
「……今日は俺が先か」
 ベッドから降りてスリッパを突っ掛けると、椅子に放り出してあったガウンを羽織った。そのままユーリエの部屋へと行き、そっとドアを開けた。
「ユリ。朝だよ」
 ハンスは戸口から、ベッドで盛り上がった毛布に向かって呼びかけた。すると毛布はごそごそと動いて、しかし起きる気配はなかった。
 部屋の中へと足を踏み入れる。そして毛布の上から肩に手をかけて、揺すりながら声を掛けた。 「ユリ――」
 突然、ユーリエが跳ね起きた。
 大きく目を見開いて、ベッドの上に身体を起こして、大きく肩を上下させている。何かに驚いたような、そんな感じだった。
 思わず身体を引いたハンスが、ためらいがちに訊いた。
「――大丈夫?」
「あ……、」
 突然、ユーリエの見開かれた目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。顔を悲しみの形に歪めることすらもせず、ただ泣いていた。
「その、……だいじょうぶ」
 そう言って、ユーリエはパジャマの袖で目元を抑えた。出鱈目に涙を拭ったあと、訊ねる。
「ハンスさん」
「うん?」
 できるだけ優しい声に聞こえるように願いながら、相槌を打った。
「昔の夢を見て、悲しくなることってある?」
 ハンスはユーリエの頭に手を置いた。そして髪の毛を撫でて、
「ああ」
 こう答えた。
「よくあるよ」









 二、三日前の話になる。
 連邦捜査局がヘンリーの事件を引き継いで、部長はハンスに対してこれ以上勝手に事件に関わるなと、いつになく厳格に言い含めた。お前に捜査権などないのだし、そもそもその捜査権も連邦の奴らに移る――お前に出来る事など元々無かったんだ、と部長は締めくくった。
 分かったかと聞かれて、ハンスはよく分かりましたと答えた。その後、マイクが退院できるようになるまで代わりの警官をあてがわれる事も告げられた。明らかに自分に対する監視役だったが、ハンスは特に拒まなかった。
 もうヘンリーの件は忘れようと思ったのだ。
 あいつと俺はどこか似ている――どこかは朧気にも分からなかったが――その事を認めるのが嫌で、ハンスはこれ以上ヘンリーに関わるのが嫌になっていた。


 そして今、ハンスは気怠げにパトカーを運転している。隣にいるのはひどく若い、制服をしっかりと着込んだ男だった。それが金色の髪や青い目と見事に相まって、ご婦人なら誰でも三回くらいは振り向きたくなるような雰囲気を醸し出している。
 だが美形なのも見た目までだった。
「名前、なんてったっけ?」
 ハンスが会話を切り出す糸口としてそう話し掛けると、助手席の美男子は『ウォルター・コーエン』と書かれた胸のバッヂをぐいと突き出した。
「よく分かったよ、ウォルト」
「ウォルターです。早く覚えてください」
 このウォルターという名前の若者は、ひどくぶっきらぼうだった。それも性格上そうであるというわけではなく、ストイックに振舞うことが格好良いと思っているタイプの俗物だった。
 海兵隊にもこういう類の人間がいただろうか、とハンスは考えた。あの頃の自分達はある意味でストイックではあったかもしれない。誰もが戦争を茶化して、それを聖戦であるとか正義のためだとか考えはしなかった。死体へ向かって、まるで生きている人間にするように挨拶をしたり、戦闘でも慌てることなく冗談を発したり、そうやって戦争に対してストイックに、不感症的であろうとした――本当は怖かったのを、無理矢理に隠そうとして。
 その事を思うと、ハンスはただ格好良いからという理由だけでストイックぶった隣の若者が疎ましくてたまらなくなった。
「戦争へは行かなかったのか?」
「は?」
 ハンスが問い掛けると、ウォルターは本当に分からないといった顔をして聞き返した。「湾岸だよ。お前は行かなかったのか」
「行きませんよ」
 ウォルターはさも当然といわんばかりに即答した。
「誰が戦争に好んで行くもんですか。あんなのただの人殺しじゃないですか」
「そうか?」
「僕の親父はベトナム戦争へ行きましたが、親父はよく言ってましたよ。戦争にだけは行くなと。戦争は何の意味もない、人が死ぬだけだと」
 ハンスは笑った。せめて表情だけは笑いの形を取り繕おうと努力した。
 この隣の坊やは、戦争の犠牲によって守られてきたものを何だと思っているのだろう? 彼の祖父の戦った第二次世界大戦はユダヤ人とアジア人をドイツや日本の手から救い出した英雄伝で、父親が戦ったベトナム戦争は悪だとする感性が分からなかった。あの戦争にだって大義はあったのに。
 何より――俺が命を懸けた戦争をどうして否定するんだ
「そんなもんかね」
 ハンスは出来るだけ落ち着いた声で適当に返事を返しながら、銃後がこんな若造だらけではヘンリーが暴れたくなる気持ちも分かると、ぼんやり考えた。考えた後で、奴に理解を示そうとした自分の正気を疑った。




 ストイックなだけでなく仕事には生真面目なウォルターと一日のパトロールを終えて署に戻ると、報告書の提出にひどく時間が掛かった。ハンスがいつも通りに適当に済ませたそれを、ウォルターは学会に提出する論文であるかのように長々と、しかも詳細に書き綴ったのだ。そうして出来上がった報告書はハンスが適当に書き上げたものと矛盾があり、ハンスの方が正確に書き直さなければいけなかった。
「お疲れ様」
 帰宅するとすぐに、ユーリエがそう言葉を掛けた。ハンスは不思議そうな顔をして、
「疲れてるの、分かる?」
 そう訊ねた。今度はユーリエの方が不思議そうな顔をした。
「“お疲れ様”って言っただけでしょ?」
「……まあ、確かに疲れてるが」
「?」
「何でもない」
 ハンスはそう言ってユーリエの頭を撫でた。仕事の空気を持ち帰らないように注意していたのに、自分が疲れていた事を悟られてしまったような気がした。
 居間にはユーリエのお気に入りのオルゴールの音と、えも言われぬ摩訶不思議な料理の香りが立ち込めていた。
 どれほど仕事が不快で窮屈なものであったとしても、この家庭的な空気だけはいつも通りだった。もちろん傍から見れば異質なものだが――独身男と養女――ハンスにとってはこれが家庭というものだった。
 そう……これが自分の一番大切にすべきものじゃないのか?
「食べないの?」
 ふと気付くと、ユーリエが食卓の向かいから上目遣いにこちらを伺っていた。
「いや、食べるよ」
 笑いながら、ハンスは食事に手を付ける。
 自分なりの正義の実現のために、今まで警官として自分なりに頑張って来たつもりだった。いつの間にか本当の正義からは程遠い形になってしまっていたが、ハンスはそれでも一向に構わなかった。  そう、構わなかった――それも今までの話だ。
 今は何よりも大切にしたいものが目の前にある。ユーリエの為になら、あるいは自分の決めた歪な正義も全てうっちゃってしまって構わないのではないだろうか。
「ユリ」
「うん?」
「次の週末はお休み?」
「うん。お休み」
「ならさ、」
 言い出すまでに、一瞬の躊躇があった。自分の言葉がユーリエに何がしかの違和感を――たとえば「突然どうしたの?」と言われるとか――与えるのがひどく怖かった。
 ほんの一瞬だけだった。
「一緒にどこか出かけようか」
 ユーリエがスプーンを口に突っ込んだ格好で固まった。
 大きな目をまんまるに見開いて、ともあれスプーンを引っこ抜いて、口に放り込んだものを咀嚼してから飲み下し、
「行きたいっ!」
「じゃあ、車出してどこか行こう。どこが良い?」
「……えと、」
 しばらくスプーンを振り子のように振りながらユーリエは考え込み、
「――あした、カリンに訊いてくる! どこか素敵な場所知ってたら教えて、って。もし私が思いつかなかったらハンスさんが決めて良いよ」
「わかったよ」
 笑顔で談笑しながら、ハンスはいつに無く自分の胸が高鳴っているのを感じた。今からずっと昔、ハンスが今のユーリエほどの歳だった頃に、動物園への遠足を明後日に控えた時のあの昂揚と同じ感触がした。
 あるいは、人はそれを幸せと呼ぶのかもしれない。







「あいつら」
 助手席のウォルターが呟いた。ハンスがそちらに目を遣ると、道路脇の細い路地で男達がたむろしていた。黒人が二人とラテン系が一人。手にはドル札と白い粉。
「俺達が見えてないんですかね」
「この街じゃみんなこうだ」と、ハンスはハンドルを切りながら答えた。「奴らは警官を怖がらないし、俺達は奴らを捕まえようとしない」
 そう言いながらハンスはパトカーを道路の脇に止めて、シートベルトを外して車を降りた。慌てて後を追うウォルターを待たずに道路を引き返して、先ほどの細い路地を覗き込んだ。
 黒人の背の低い方がハンスに気付いて、もう一人のNBA選手のような奴が遅れて振り向いた。最後にメキシコ人が怯えた顔でハンスを見つめた。
「まあ待てよ、にいさん方」
 ハンスは両手の掌を見せながら、親しげに声を掛けた。そして、後から追い付いたウォルターを無視して続ける。
「にいさん方の取り引きを止めようなんて思わんよ。俺が用があるのはそっちのタコス野郎だ。続けろよ」
「応援を呼びますか?」
 ウォルターが小さく耳打ちした。その声から恐怖の匂いを感じ取りながら、ハンスは忌々しげに告げた。
「大人しく車に居ろよ。いいな?」
 そうしてから男達に向き直ると、黒人二人はそそくさと立ち去っていった。後に残ったメキシコ人は、以前見逃してやった麻薬の売人だった。今は手にしたドル札を居心地悪そうに弄繰っている。
「なあ、あんた。あんたはこういうのが好きかもしれないが、こんな心臓に悪い登場の仕方は止めてもらえないか?」
 精一杯の強がりを聞き流して、ハンスは煙草を咥えた。
「でだ。あんたに頼まれてた件だけどな……」
「いいんだ」
 メキシコ人は、まるで言い損ねた言葉をどうしようか迷っているような様子で凍りついた。構わずにハンスは続ける。
「もうあいつの事は忘れる事にした」
「なあ、旦那」
 メキシコ人は飄げた仕草で肩を竦めると、ポケットから煙草を取り出して咥えた。
「そりゃねぇだろうよ。せっかく俺が例のヘンリーって野郎についてネタ仕入れてきたってのにさ。そもそも――どうでもいいなら、何で俺なんかに会いに来たんだ?」
 ハンスは漂ってきた煙を手で払いながら――マリファナの匂いがした――自分の中で良からぬ好奇心が頭をもたげて来るのを感じた。
「話すだけ話してみろよ」
「ダチのダチから聞いた話だけどいいか?」
「俺の気が変わらないうちにさっさとしろ」
「そのダチのダチは集会があるってんで――何の集会かは訊かないでくれよ――仲間と一緒に廃屋に集いったらしいんだ。そこでデカいショットガンを持った奴と鉢合わせした、そいつは何度かテレビに映った奴にそっくりだった。そういう話だよ」
「よくお前さんの友達は無事だったな」
「ダチのダチだ。そいつはショットガンを向けられて、慌てて帰ってきたそうだぜ。他の仲間と一緒にな」
「どこの廃屋だ?」
「それは勘弁してくれ」
 ハンスはメキシコ人の持っていたマリファナ煙草を叩き落すと、そのまま腕を捻り上げた。悲鳴を上げるのにも構わずさらに手を捻ると、壁に押さえつけた。
「あんまり焦らすとロクな事ないぞ。さっきの坊やが無線で通報するかもしれんし、何より俺は回りくどい事が嫌いだ。さあ、どこの廃屋だ?」
「ふざけんな! 俺がチクった事があの女房殺しの気狂いにバレてみろ! 俺まで殺されちまう!」 「今ここで俺が殺してやっても構わないんだぞ。でなきゃ前に言ったように、お前は子供に薬を売った売人として捕まえてやる。子供のレイプ犯としてだっていい。刑務所のおかまどもが好きなタイプを知ってるか? 子供に悪戯するような肝っ玉の小さい奴だ」
「ウィルシャー通りの……痛ぇ! あそこだよ! 鉄柵に囲まれた倉庫ばかりの陰気なとこだ!」
 ハンスは突き放すようにメキシコ人を離すと、これ以上ないほどに気の良い『おまわりさん』の笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
「触んなよ! 行っちまえ! 二度と俺の前に現われるな!」
 メキシコ人は叫んだ。ハンスは笑いを浮かべたまま「俺もそう願ってるよ」と返すと、そのまま裏路地から歩き去った。
 パトカーまで戻ると、ウォルターが主人を見つけた仔犬のような目をしてハンスを見た。
「どうなったんですか?」
「何が」
「さっきの売人」
「逃がしたよ。あんなのをいちいちしょっ引いてたら、そのうち留置場は一杯だ」
 運転席に乗り込み、イグニッションを捻る。明らかに不満気な助手席の空気を無視し、車を走らせ始めた。
「どこ行くんですか? 署に戻るんですか?」
 ウォルターが訊いた。
「いや。まだちょっと寄る所がある」
「どこです?」
「ウィルシャー通り」






 ウィルシャー通りを評したハンスに言わせると、そこは「西部劇の舞台に使われそう」なほどに殺風景な場所だった。
 運送会社の倉庫とトラック運転手向けの商店が散在していたその町外れの道は、州全体に荷物を配送するための中継点として、そこそこ賑わった事もあったらしい。しかし80年代に入ってからは、各社とも相次いで配送ルートの見直しが行われたために、この地方都市にあって異常なまでに隆盛を誇ったこの通りは再び元の田舎道へと逆戻りした。
 急激な零落の中にあって多くの倉庫や建物は朽ちるがままに放置されて、今や犯罪の舞台として極めつけの危険地帯と変わり果てている。若者のドラッグパーティからスナッフムービーの撮影までありとあらゆる事が行われていながら、しかし誰もが慢性的にこの地域を放置していた。
「ここがどうかしたんですか?」
 のろのろと徐行するパトカーの助手席で、ウォルターが怪訝そうに尋ねた。
「さっきの売人が――あのメキシコ野郎だよ――あいつ、ここで何か妙な動きがあるって抜かしてやがった」
 ヘンリーの事については触れず、ハンスはそれだけ答えた。あの凶悪犯がここに居るかもしれないと知ったら、この坊やは震え上がってしまうに違いなかった。
「降りるぞ」
 錆び付いたフェンスに寄せて停め、ハンスは車を降りた。エンジンの音が消え去ってしまうと、この通りはひどく静かだった。ほとんどの建物が門戸を閉じているにも関わらず、コークの自販機だけは奇麗なままで、未だに動き続けていた。
 知らず、ハンスの口から溜息が漏れ出た。
 どうして自分はここに居るのだろう? ヘンリーの事は忘れることにしたのではなかったか? 奴は連邦に任せておけば、そのうちに捕まって然るべき裁きを受ける。ハンスが放って置いても、この国の正義はきちんと成し遂げられるのだ。
 そもそも、あんな信用できない売人の言を元にしてここに来る事自体、気が狂ってるとしか思えない。
「クラインさん?」
 ウォルターが不安げに声を掛けて、ハンスはその時初めて自分の右手がホルスターに納まった45口径に触れている事に気付いた。目の前の錆色の倉庫のどこか、ガラスの割られた窓のどれか一つ――もしヘンリーがそこに居るとしたら、奴はもうパトカーのエンジンの音を聞きつけていて、今まさにショットガンの照準を――ひどく小さな照門と照星から成る死の刻印――を自分の頭に押し付けているのではないだろうか。
 やめろ、とハンスは自分に言い聞かせた。想像が人間の力を奪う事を、彼はベトナムで学んでいた。
「行くぞ。若い奴らがどっかで盛ってるかもしれない」
 そう言って無理に笑おうとしたが、ウォルターの不安そうな表情は消えなかった。
 いっそ何とも出会わなければいい、とハンスは思った。或いは麻薬をやっている若者に出くわすだけとか。一方で、自分がここでヘンリーに決着を――何の決着を?――付けられればいい、そうも思っていた。
 右手の指が無意識のうちにホルスターのストラップを外していた。




 どの倉庫の中も薄暗く、大きさも材質もまちまちの箱がいくつも散らばっていた。或いは廃屋などではなくて、まだ何かの保管のために使われているのかもしれない。
 マグライトの光芒が薄闇を切り裂くたびに、鼠やらゴキブリやらが暗闇を求めて隅へと逃げ出していった。床に散らばるのは枯葉や犬の糞、デリバリーピザの箱。使用済みのコンドーム。注射器。 「何にもありませんよ」
 ウォルターが、怯えを悟られないようにわざと大きな声で言う。ハンスはなんだか自分が肝試しに出掛けた子供で、無理矢理ウォルターを引きずって来たかのような決まりの悪さを感じた。
「ないな」
 錆び付いた薄いドアを蹴り開けると、夕暮れの光がそこから差し込んだ。切なさとやるせなさ、それに倦怠感を孕んだ黄昏色の光だ。
「ねえ、帰りましょうよ。そもそもここは僕たちのパトロール区域じゃありませんよ」
「次のを確かめたら、そうしよう」
「あとで何か言われても僕は責任持てませんよ? クラインさんのせいですからね」
「黙ってろ」
 少し強めの口調でウォルターを黙らせると、ハンスは別の倉庫のシャッターを見上げた。巨大なシャッターだった。開けるためには何かしらの電気的な操作が必要なようだったが、そのすぐ横にはごく普通のドアが設えられていた。
 押し開けて中へと入った。
 これまで見てきた倉庫と変わらない、堆く積み上げられた木箱と棚があった。
「気が済みましたか?」 
 ウォルターのうんざりした声が背後から響いた。
「早くパトロールに戻らないと僕ら――」
「静かにしろ」
 ハンスが鋭く言って、そして不安をもたらすような沈黙が倉庫に満ちた。寒い風がガラスのない窓枠で音を立てていた。
「何か聞こえなかったか?」
「何を――脅かしっこ無しですよ」
 飄げたふうに肩をすくめるウォルター。何かの冗談だと思っているらしい。
 だが、ハンスは確かに聞いたと思った。風の吹き込むびゅうという音以外に、何かが――鼠よりも大きな何かが動く時に出すような音を。
 マグライトが木箱や棚や錆び付いた鉄骨を照らし出す。何の考えも無しに積み上げられたそれらが忌々しい。見通しが全然利かなかった。
 荷物の間を縫ってさらに奥へ進むと、マグライトの光があるものを照らし出した。
 階段だった。
 それはグレーチングを溶接して作られていて、壁に沿うようにして上へと伸びていた。その上には、壁から張り出した通路があり、吹き抜けとなって倉庫の壁をぐるりと囲んでいた。
 今まで気付かなかったそれを見回したハンスの目に、何か動く物体が映った。西日の差し込む窓の下――逆光でよく分からないが、吹き抜けの床ぎりぎりを動く影――あれは何だ?
 不安に駆られた右腕が腰の45口径に伸びる。老眼気味の目玉が恨めしい。目を細めて、滲む西日の光を遮り、影の正体を見定めようとした。
 影は吹き抜けに這いつくばっていた。
 影は落下防止のフェンスから何か細長いものを突き出していた。
 ハンスがその細長いものの指す先へと目をやると、倉庫の入り口で突っ立っているウォルターの姿があった。
「ウォルター!」
 叫びながら、ハンスは45口径を抜いていた。右手の親指が安全装置を下ろし、ろくに狙いもせずに影の見えた方向へと三発を連射した。
 放った弾丸は当たらなかったが、薄暗い倉庫の鉄材に当たって火花を散らし、影は体を竦ませた。  すぐにハンスは影から見えない場所へと転がり込むと、ともあれマグライトを消した。そして、一目散に逃げ出していなければまだそこに居るはずのウォルターに叫んだ。
「車に戻って応援を呼べ! コード3だ! さっさと呼べ!」
 返事はなかった。代わりに、怒り狂ったような二発分の散弾がハンスの隠れる木箱を抉った。
 くそ、とハンスは頭の中で悪態をついた。
 ショットガンを携えた影は――疑うまでもなくヘンリー・パターソンだったが――利巧にも最初に倉庫に入ったハンスではなく、後から入ったウォルターを最初に狙っていた。出口に近い奴から仕留めるつもりだったのだ。
 くそったれ、とハンスは再び思った。陸軍野郎が。海兵隊をなめるなよ。
 木箱の陰から右手と45口径だけを突き出して、再び三発を放った。そして木箱の反対側から、別の遮蔽物目掛けて駆け出した。
 キャンバスのシートで覆われた何かに転がり込む直前、ハンスは散弾が放たれる際の銃口炎を視界の隅に捉えていた。すぐさま立ち上がり、相手が次弾を薬室に装填する前に引き金を引いた。
 一発目はヘンリーの立つ位置からかなり離れた壁で火花を散らし、二発目は発射されなかった。ハンスが手にした拳銃の遊底は下がりきった位置で止まっており、既に弾がないことを示していた。しかも慌てて弾倉排出ボタンを押したために、勢い良く落とされた弾倉が床に転がって音を立てた。その音を聞きつけて、ヘンリーは吹き抜けを駆け抜け、足音を隠そうともせずに階段を下りてきた。
 予備弾倉をポーチから抜き出す手が震えた。ようやく予備弾倉を銃把の中に叩き込み、遊底を前進させると、遮蔽物から顔と銃を突き出してヘンリーの姿を探った。
「くそったれ! 手を挙げて出て来い!」
 思わずそんな台詞が口をついて出た。本当は死ぬほど怖かった。あのベトナムの地獄から生きて帰ってきたハンス・クラインが、アメリカの片田舎の寂れた倉庫の中でびびっていた。
 勿論、返事は返ってこなかった。まるで何事もなかったかのように、ただ風が吹き込む音だけが倉庫の中に響いていた。
 何処に行った?
 あいつは何処に行ったんだ?
 吹き抜けを降りたのか? 自分と同じようにどこかの荷物を遮蔽物にして、こちらの出方を伺っているのか?
 ちくしょう、とハンスは今日で数え切れないほど口にした呪いの言葉を吐いた。俺はいつもこうだ。自分が正義を背負い込んだと勘違いして、他人を自分勝手に裁きすぎたんだ。やりすぎたんだ。そして、そのツケが今日回ってきたんだ。









 息を喘がせながら、ウォルター・コーエンは何とかパトカーまで辿り着いた。
 ここまで走ってくる最中に何度もしたように、再び後ろを振り返る――あの倉庫に潜んでいた男が、逃げる自分の背中に向けて銃を構えているのではないか。振り返った先には、時折銃声が響く倉庫が、夕暮れの太陽にオレンジ色に染まりながら佇んでいた。
 助手席側のドアを引き開け、すぐさま無線機のマイクを引っ掴んだ。
「こちらC-59。こちらC-59。コード3だ。ウィルシャー通りの倉庫で銃撃戦だ」
 そして一度唾液を飲み込むと、こう付け加えた。
「ありったけの応援を寄越せ! コード3だからな!」
 



 どのような戦闘の場面にも、こうした空白の時間があることを、ハンスはベトナムでの経験から知っていた。
 特に膠着状態に陥った時は、双方とも攻撃の手を引っ込めて、相手の出方を伺ったりこっそりと回り込んだりしようとする。まるで全てが終わったかのようなその平穏さは、しかし裏では多大な危険を孕んでいる。
 ヘンリーはこの倉庫の何処に居るんだ?
 こちらが丸見えになる位置までそろそろと移動しているのか?
 或いは逃げ出したのか?
 ハンスは決して一箇所に留まらず、音を立てないように遮蔽物から遮蔽物へと移動していった。ヘンリーに――もし居るとすれば――見つかるよりも、どこかで鉢合わせしてしまう事の方が恐ろしかった。
 そして、膠着状態は一瞬にして崩れた。
『C-59、C-59、聞こえますか?』
 制服のエポレットから下げた無線機がひび割れた声でそう言った。カナダまで聞こえるのではないかと思えるその音は、ハンスの居場所をヘンリーに如実に伝えていた。
 半ば恐慌に背中を押されて駆け出した直後、ハンスがいた空間を散弾が掠めていく。その射線をほぼ山勘だけで推測し、発射された場所へ向けて狙いもつけない連射を放つ。錆び付いたフォークリフトの陰へと隠れ、そして肩につけた無線機を毟り取った。マイクのジャックが外れた。
 ハンスは、ベトナムで自分がどのように生き残ったかを思い出そうとした。死にそうな事態に直面したとき、何を心の支えにしたかを思い出そうとした。だが、彼の中には何もなかった。祈るための神も、思いを馳せるための恋人も、甘えるための母親も、ハンスは既に失っていた。
 ああ、とハンスは心の中で呻いた。何でもいい。誰でもいい。頼むから、俺を死なせないでくれ
 その時、ハンスの中である一つのイメージが浮かび上がった。警察の制服を着た二人の男。ドア。「Hans C Klein」と書かれたビーズの表札。不安げに顔を覗かせるユーリエ。
 “ハンス・クラインさんが亡くなりました”
 “凶悪犯との撃ち合いで命を落としました”
 “彼の上司として――云々”のたわごと。
 そして、自分が命を落とした後、再び里親を探すことになるユーリエのことを思ったとき、ハンスは自分でも訝るほど落ち着きを取り戻していた。自分を助けるのは神でも恋人でも母親でもなく、ユーリエだった。
 手にした拳銃を持ち直して、深呼吸をした。
 心の中で数を数える。1、2、3だ。それで飛び出す。1、2、3……待て、残りの弾数は確かめたか? よし、1、2、3……
 そして心の中の数字が7に達した頃、ようやくハンスはフォークリフトから飛び出した。
 小走りに走りながら、先ほどヘンリーが銃撃してきた棚へ向けて二発撃った。すぐさま弾倉排出ボタンを押して空になった弾倉を排出した。空弾倉が床に転がって、内蔵されたスプリングがたわんだ音を立てる
 そして、果たしてヘンリーはその音を見逃さなかった。
 棚の陰から巨体が踊り出た。ハンスは初めて間近で見るヘンリーの表情に困惑した。それはさっきまで狙っていた影のような姿ではなく、やつれ、無精髭を生やした兵隊の姿だった。
 ハンスは撃った。


 弾倉は空になっていた。が、薬室に装填された最後の一発が、45口径の銃身から滑り出て、ヘンリーの右肩を撃ち抜いた。
 狙い通りの弾道だった。
 それでもヘンリーはショットガンを手放すことなく、激痛に顔を歪めて叫びながら、左手でショットガンの前床を掴んで持ち上げ、至近距離からハンスの頭を狙った。
 もはやハンスは逃げようとも、射線から体を逸らそうともしなかった。手にした45口径は完全に沈黙し、左手から予備弾倉までの距離は無限にも等しかった。自分の死を伝える明日の朝刊が目に浮かんだ――『万年巡査 凶悪犯と銃撃戦の末死亡』――ハンス・C・クライン。1942-1994。死ぬ間際に目にしたのは、12番径の黒い銃口。 
 そして、ハンスは撃鉄の落ちる音を聞いた。
 撃針が空の薬室を叩いた音だった。
「あぁぁぁぁっ!」
 自分でも驚くような絶叫を喉から迸らせながら、ハンスはヘンリーに踊りかかった。ヘンリーが倒れ、ショットガンが床を滑って行った。馬乗りの体勢から右手の拳銃を何度も打ち下ろした。
 しばらくそうした後、ハンスは荒い息を付きながら床に伸びたヘンリーから離れた。そして最後の予備弾倉を拳銃に装填すると、苦しそうな呻き声をあげるヘンリーに向かって言った。
「うつ伏せになれ。ほら、さっさとしろ!」




 気付けば日は暮れていて、割れた窓の外は紫色の空が広がっていた。
 さらに暗くなった倉庫の中、ハンスは木箱の一つにもたれかかって、反対側の棚に手錠で繋がれたヘンリーに向かい、手にした45口径を向けていた。
 ヘンリーの姿は酷い有様だった。逃亡生活の間に頬はやつれ、髭と髪はぼさぼさに乱れ、その上言い表せないような雰囲気が漂っていた。ハンスがよく知る、『千ヤード先を見通す目』を得てしまった兵隊の纏う空気だ。さらに加えて、右肩の銃創――45口径弾にしては随分奇麗だった――、そして何度も殴り付けて腫れ上がった顔面など、見るからに痛々しい姿だった。
「随分ハンサムになったじゃないか。おい」
 もっとも気付いてみれば、ハンスも何箇所か怪我をしていた事が判明した。物陰に転がり込んだ時に膝と手首を擦り剥いていたし、左肩がまるで脱臼したかのように痛んだ。
 投げ捨てた無線機を探したが、どこにも見つからなかった。早く自分の無事を誰かに報告したかった。そして厄介な捕り物をしたことも。
「安心しろよ。お前の権利はこの国と、どっかの団体が守ってくれるだろうさ。明日の新聞でお前の顔を見て、お顔を傷付けたのは人権侵害だって騒ぎ出すに決まってるんだ。いつだってそうだ」
 そう言って、ハンスはヒステリックな笑いを漏らした。ここに精神科医が居たら、すぐにでも大学病院への紹介状が書いてもらえそうだった。自分が生きていることが嬉しくって仕方がなかった。
「銃後はみんなそうさ」
 その呟きに、ハンスの笑い声が止まった。
 見ると、相変わらず右腕をだらりと垂らし、左手を棚と手錠で繋がれて、俯いてはいたが――だがヘンリーは腫れ上がった唇を動かして喋っていた。
「なんも分かっちゃいないんだ。あいつら」
 その言葉は、内容とは裏腹に、憤りや悲しみといったものは含まれていなかった。黄昏の空気のような、重ったるい諦めが色濃く滲んでいた。
「酷かったのか?」
「何が」
「戦争は」
 ハンスの問いに、ヘンリーは今度こそ不敵な嘲笑を交えて答えた。
「あんたに話したって分からないだろうよ」
「このハンスおじさんはな、ベトナムで戦って帰ってきたんだぞ。ハンス・クライン伍長殿だ。驚いたか?」
 おどけた風なハンスの言葉に、ヘンリーは顔を上げた。その顔には縋るような表情が――自分より酷い目に遭った人間に会うことで「自分はまだマシだ」と思い込みたいという身勝手かつ切実な思いが読み取れた。
「酷かった」
 それからは、まるで堰を切ったようだった。
「まるで負けてるような感じだった。石油が燃え上がってて――ほら、テレビでも流れただろう――燃え滓が降って来るんだ。全部真っ黒になっちまうんだ。昼間なのに……違う、晴れてるのに曇りみたいに暗いんだ。イラク兵は――あいつらジェンセンを殺しやがった。俺もあいつらを撃ってやった。バグダッドはひどかった。撃ってくる奴がいないんだ。みんな投降してくるんだ。そして、投降してくる奴に紛れて撃って来る奴がいる。そいつら全員が、撃った奴も降伏してた奴も、みんな殺された。あの軽機で……分かるだろ、バーッって。それきりだ」
 ハンスは、まるで息子に対する父親のような気持ちでそれを聞いていた。ヘンリーのする戦争の話は時系列を整えようとする努力すらなく、その上ハンスが経験した戦争からはややかけ離れていた。だがそれは――「戦争」の本質という点に於いては、ベトナムもイラクも同じだった。
「国に帰ってきてから、この話を何度も、色んな奴にしたよ。でも、あいつら何も分かっちゃいなかった。あいつら焦げた戦車とか、吹き上げる石油とか、そういうものしか知らなかった。俺の戦争を分かってくれなかった。ジュリーさえもだ! 分かったような顔をして、その癖『ヘンリー、忘れてしまいなさい』なんて言いやがって――忘れていいものか! あんなに死んだんだ! だから俺は……ああ、ロン……」
 この男もヘンシェンなのだ、とハンスは思った。
 あの童謡の男と同じように、旅をしている間に自分の居場所を無くしてしまっただけではない。かつで『ヘンシェン』と呼ばれた自分と同じ経過を辿ってきた男が、目の前にいるのだ。
 ハンス・“ヘンシェン”・クラインは警官になり、ヘンリー・“ヘンシェン”・パターソンは犯罪者となった――その差は何なのだろう? そこに差があったとしても、それは取るに足りないほど些細なものではないだろうか?
「……あんたはよくやってる」
「何?」
 ハンスは、自分が成っていたかもしれない犯罪者に訊き返した。どこか彼方からサイレンの音が聞こえて来た。
「あんたはよくやってる。戦争帰りなのに、普通の暮らしに溶け込んでる。あのベトナムから帰ってきて……どうしてだ? なんでそんなに真っ当に生きていられるんだ? あんたは戦争にこっぴどくやられたんじゃないのか?」
「やられたよ。そりゃもう、こてんぱんにな」
「ならどうして――」
「もう済んだ事じゃないか」
 ふと口をついて出たその文句が、一種の閃きのようにハンスの脳裏に瞬いた。
 それは、あの戦争から何十年も掛かってようやく見つけた真理だった。ただの決まり文句に過ぎない言葉が、自分を生き長らえさせてきた大いなる哲学で、帰還兵を常に誘う悪からハンスを遠ざけていたのだ。
「もう終わったんだ。過去の事だ。ベトナム戦争は確かに辛かったが――だがな、ハンスおじさんは毎日を生きるのに忙しいんだよ」
 そして、ハンスは笑った。心の底からの笑いだった。
「毎日うじうじするほど思い出す暇がないんだ。お前は深刻に考えすぎなんだよ、ヘンリー」
「俺はあんたみたいに割り切って考えられないんだ。忘れることなんてできない!」
 ヘンリーの声は、半ば裏返っていた。棚に繋がれた手錠がじゃらりと鳴った。サイレンの音が近づいていた。
「まあ、思い出す事はあるよ」
 ハンスは肩を竦めた。
「でもそれだけだ」
 サイレンが次第に大きくなり、そして急ブレーキのスキール音がそれに加わった。
「いよいよお別れだな、ヘンリー。お前はいい奴だよ。……つまらない陸軍野郎だがな」
 ハンスが呟いた。ヘンリーは再び黙り込み、追い詰められた犯罪者に特有の、ある種の諦観とともに何かを考えていた。
 やがて騒々しい足音が聞こえ、そして唐突に止んだ。倉庫の四方が警官隊に包囲されたのだろう。  ハンスは外に聞こえるような大声で、叫んだ。
「俺は生きてるぞ! 犯人はもう逮捕した! 入って来い!」
 ドアが蹴り破られた。そして、小さな何かが床を転がってきた。
 それは薄暗闇の中を何度か跳ねて、そして突如真っ白な光がハンスの意識を包んだ。




「おい、起きろよ」
 ふと気付くと、埃っぽい床に頬を擦り付けていた。おなじみの事件の後の喧騒――赤と青の点滅灯、歩き回る警官、何本ものマグライトの光。
 次第に意識がはっきりしてくると、ハンスは自分の背中を蹴るブーツを払いのけた。憮然とした表情で見上げると、スミティがSWATの黒い戦闘服に身を包んで立っていた。
「くそ」
 頭を振りながら起き上がると、ハンスは不機嫌なのを隠そうともせず、言った。
「あんたかスミティ? フラッシュバングを放り込むなんて大層な計画を思いついたのは」
「お前が報告を寄越さないから悪いんだ。無線はどうしたんだ?」
「どっかその辺に転がってるよ」
 そう言ってハンスが周囲を見回したとき、あることに気付いた。
「ヘンリーは?」
「フェドの連中が連れてっちまった」
 スミティが自虐めいた笑いを漏らして、それから真顔に戻る。
「ハンス、あんた厄介な事になるんじゃないか? ヘンリーの事を気にしてたのは署内じゃみんな知ってるし、そいつがヘンリーを逮捕したとなれば、子供だって何があったか分かるだろうさ。部長がカンカンに怒ってたぞ。巡査風情が連邦のヤマに介入するなんて前代見聞だと」
「ああ、そう」
 ハンスは気の抜けた返事をしてから、自分のこれからについて考えた。また部長から譴責されることは間違いないだろう。もしかすると、署長から。どれほどの処分が下されるのかも定かではなかったが、生半可なものではないだろう――何しろ、自分は連邦捜査局の事件に茶々を入れたのだから。
 だが、そうした事は今のところはどうでもよかった。ただひたすら疲れていた。体のあちこちが痛んだ。少し眠りたかった。
「立てるか?」
「怪我してるんだ。肩が抜けてるかも知れん。救急車は呼んであるのか?」
「しっかりとな、ハンス」
 やがて担架が運び込まれ、ハンスはその上に載せられた。何を勘違いしたのか、救急隊員は頸部骨折用の枕をハンスの首の下に差し入れた。
「おいスミティ」
「ん?」
「頼みがある」
「遺言なら弁護士呼べよ」
 二人は笑った。笑うたびにハンスの傷が痛んだが、それでも笑うのを止めようとはしなかった。
「俺はこれから病院行きだろう?」
「だろうな」
「じゃあ病院にユーリエを呼んでくれ」
「お前の嫁さんか?」
「違う。娘だよ。いや、娘じゃないけど、でも娘なんだ」
「分かったよ。なんとかする。だから感動の再会の用意でもしとけよ」
 担架が持ち上げられた。よく考えてみれば、救急車に乗せられるほどの怪我でないようにも思えてきた。ハンスは急に決まりが悪くなった。
「絶対に呼べよ。なんだか無性に会いたくなったんだ」
「任せとけよ、兄弟」
 そう言って、スミティは白い歯を剥き出しにして笑った。




 病院でぞんざいな――怪我の具合にしてみれば精密すぎる気もしたが――検査を受けた後、傷口を消毒され、肩にはウィッチヘーゼルを塗られた。そしてロビーに座っていると、今度は連邦捜査局の連中がハンスを待ち構えていた。
 彼らの質問は微細な点まで突いてきた。何故事件現場へ向かったのか(善良な市民から通報を受けたんです)、そこはパトロールの管轄外であったにも関わらず何故そこにいたのか(当該地区の担当が応答しなかったんです)、何故ウォルター・コーエン巡査は応援を要請しただけで、その後パトカーに隠れていたのか(分かりっこないでしょう)、等々。
 質問攻めに遭っている間じゅう、部長がすぐそばで苦々しい顔で立っていた。質問に辟易しているハンスをいい気味だと嘲笑っているようにも、手柄を立てた部下が頭の固い連邦捜査局に追求されているのを悔しがっているようにも見えた。多分前者だろう、とハンスは思った。
「またやってくれたな」
 捜査官が引き上げた後、部長がそう言った。ハンスはロビーを忙しく行き交う看護婦を目で追いながら、いつものようなとぼけた態度で応じた。
「どうやら私は事件と縁があるらしい」
「馬鹿言うんじゃない。連邦の奴らはお前を危険な目立ちたがり屋だと思ってたぞ。何て言ったか……ミュンヒハウゼン症候群? お前、ミュンヒハウゼン症候群なんじゃないか? 目立ちたがり屋はそうだって、この前テレビでやっていたぞ」
 何とでも言えばよかった。今はこの憎まれ口ですら心地よかった。
「……まあ、ご苦労だった」
「処分とか何かないんですか。戒告とか」
「それとこれとは別だ。お前は連邦の事件に不当に関わった疑惑がある。当然それには何らかの処分が下るだろう。だがな……単純な話をすれば、お前は今日も悪党を捕まえた。それだけだ」
 ハンスは、まるで初めて見る生き物にするような目つきで部長を見上げた。信じられない光景がそこにあった。部長が親愛の情を込めて笑っていた。
「じゃあ何かご褒美を貰ってもいいですかね」
「そんな事を言い出せる立場じゃないのは、お前が一番よく知ってるだろう」
「ええ。ところで――来週まで休んでもいいですか? 自宅で静養したいんです」
 部長が肩を竦めた。そして皮肉な調子で「いいとも。おまえは真面目に働きすぎだ」と言う。
「いっそ懲戒解雇にしてもいいぞ。そうすれば長い長い休暇だ。どうする?」
「いままで勤めてきた中で一番優しい気遣いですね」
 そして、ハンスは間抜けな子犬のような笑みを浮かべていった。
 部長と話し込んでいると、制服に着替えたスミティがロビーを歩いてやってきた。そのすぐ横に、不安そうな表情を浮かべたユーリエが手を引かれて歩いていた。
「ユリ!」
「ハンスさん!」
 ハンスの姿を認めると、ユーリエはスミティの手を解いて走り寄ってきた。いつもと変わらない時間の再会なのに、なんだか何年も経っているような気がした。抱きつかれた肩が痛んだが、それでもハンスは笑った。久しく忘れていたものが、再び瞼を濡らそうとしていた。
「びっくりした! あのお巡りさんが、ハンスさんが怪我したって。でも、ハンスさんは悪い人を捕まえたんでしょ? 犯人をやっつけたの?」
「ああ、そんな事はいいんだよ、ユリ。たいした事じゃない。それより、週末は旅行に行こう。約束は覚えてるだろう? どこかいい所は見つけたかい?」
「ううん、まだ。でも、また明日誰かに聞いてくる。どこでもいいの?」
「どこでもいいよ。ドリーム=ア=ドリームランドでもいい。とにかく、どこか一緒に行こう」
 そう言うと、ハンスは再びユーリエを抱き締めた。涙が溢れてきて、気取られないようにそれをユーリエのコートの襟に擦りつけた。このとき初めて、ハンスは自分が今まで生き延びてきた事が無駄ではなかったのだと思えた。自分に価値を与えてくれたこの少女を、これまでにないほど愛おしく思った。
「もう少し待っててくれ。全部済んだら、一緒に帰ろう……ああ、その前に署に戻って着替えないと。しまった」
「どうしたの、ハンスさん?」
「なんでもないよ」
 そう言って、ハンスは顔を上げた。そしてユーリエの頭を撫でながら訊ねる。
「ところで、今日の晩御飯は何を作ってたんだい?」









 ヘンリー・パターソンの逮捕は再び新聞を賑わせて、そして新たなニュースに一面を追い出され、すぐに小さな記事でしか取り上げられなくなった。戦争の事が分からない記者にはそういった形でしかヘンリーの事件を取り上げられず、戦争を知らない市民にはそれで充分だったのだ。どこかの評論家が、お定まりの「戦争の犠牲者」という陳腐な見方を哀れなヘンリーに与えていた。
 そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
 この事件が世間に与えた教訓というものも――もっともそんなものが存在するとすればだが――ハンスには理解することが出来なかった。もしかしたら、ウォルターあたりが「教訓は、戦争が悲惨だってことですよ」とでも言うのかもしれないが、そんなのは南北戦争の時代から誰もが遺伝子に染み込ませ、理解している理だった。
 或いは、その悲惨な戦争が時として遂行されなければならない場合があり、人々はそれを受け入れなければならないというのが、この事件の教訓なのかもしれなかった。



「ハンスさん?」
 後ろから声を掛けられて、ハンスは一瞬だけ振り返った。人気のない国道をひたすら走りつづける車の後部座席で、お気に入りのピーコートと帽子を被って、傍らに置いた鞄の一つをぼふぼふと叩いていた。
「どうした?」
「これ、ハンスさんの宝物だよね?」
 ハンスがハンドルに気を付けながら再び振り返ると、ユーリエが叩いている鞄が目に入った。ハンスの旅荷物が入ったデイパックやユーリエの肩掛け鞄とは対照的に、それは無骨な濃緑色をした鉄製の鞄で、蓋には南京錠が掛けられていた。
 クローゼットの中に仕舞っておいた、ベトナムの記憶を封じ込めたトランクだった。
「そうだよ。だから開けないでくれよ」
「開けないもん」
 膨れっ面をするユーリエをルームミラーで見ながら、ハンスはトランクの中身に思いを馳せた。自分の青春が――ひどく歪んだものではあったが――それらがそこに詰まっていた。失意の一生の中でしがみ付いてきた思い出が、そこにはあった。
 だが、それらは全て過去の思い出だった。
 もう済んでしまった事だった。
「ちょっと寄ってくよ」
 ハンスは適当にこれと決めた国道沿いのガソリンスタンドに車を入れた。町外れの国道にありがちな、ガス欠がドライバーを遭難させないようにと規定で作られたガソリンスタンドと違わず、孤立した人気のないスタンドだった。
 応対に出てきた老人にガソリンを満タンにしてくれるように頼んで、ハンスは車を降りた。そして後部座席のドアを開ける。
「ユリ、お手洗いは? これからまだ長いから、今のうちに行っておきなさい」
「ん」
 ユーリエは車から降りると、老人に洗面所の場所を訊ねて、そして建物の裏へと歩いていった。ハンスはそれを見送っていた。
 ユーリエが見えなくなってしまうと、後部座席に体を突っ込んで例のトランクを取り出した。横目で老人の様子を伺ったが、老人は給油口に目をやったまま身動き一つしなかった。  ハンスはガソリンスタンドを横切って、老人からは建物の影になるように歩いていった。そして目の前に広がる寒々しい冬の荒野を眺めて、それから一つ息をついた。
 ここが自分の――ヘンシェンの終着駅だ。
 そして、ユーリエの父親、ハンス・クラインの出発点だ。
 ハンスはトランクの取っ手を両手でしっかりと掴んだ。そして砲丸投げの要領で体ごとそれをぶんぶんと回し、そして手を離した。重さと遠心力に引っ張られたトランクがどこへ飛んでいったかも確認せず、そのまま車へと戻る。後ろの方で、やや遅れて何かが落ちたがちゃんという音が聞こえて来た。
「立小便かい?」
 老人が言った。給油は終わっていて、給油口を閉めているところだった。
「まあ、そんなところだな」
 料金を払うと、老人は釣銭を取りに建物へと引っ込んだ。運転席に潜り込む。老人の持ってきた釣銭を受け取って、シートベルトをして、背凭れに体を深く沈めた。目を閉じた。
 ややあって、後部座席のドアが開かれた。
「おまたせ」
 ユーリエが乗り込むと、車が揺れた。ハンスはイグニッションに手を伸ばした。
「じゃ、行こうか」
「ねえ、ハンスさん?」
 寒さに負けじと唸るエンジン音とともに、ユーリエが怪訝そうな声をあげた。
「さっきの鞄は?」
 振り返ると、後部座席にはデイパックと肩掛け鞄しかなかった。先ほどまでの無骨なトランクが何処へ消えたのか、ユーリエは不思議そうな表情で考え込んでいた。
「どうってことはないよ。邪魔だから後ろのトランクルームに移したんだ」
 ハンスはアクセルを踏み込むと、ハンドルを切って、再び国道を走り出した。
「もしかしたら、俺はそんなの持ってなかったのかもしれない」
 相変わらず不思議そうな顔をするユリを面白い物を眺めるように見ながら、ハンスはアクセルを踏み込んでゆく。過去を投げ捨てた地を後にして、車は加速してゆく。
 ガソリンスタンドがルームミラーから消え去る直前、ハンスはヘンリー・パターソンの息子、ロナルド・パターソンのこれからの人生に、幸せな事がたくさんあるようにと、誰にともなく祈った。






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