またしばらくの沈黙が過ぎると、あなたは変わっている、きっと自分はそのためにあなたを愛しているのだろうが、いつかはまた、その同じ理由からあなたがきらいになるかも知れない、と彼女はいった。

――アルベール・カミュ『異邦人』






 毛布はまるで死んだみたいに冷えていて、鳥が巣に蓄えた貝殻ほどの柔らかさしかなかった。一目で軍用のものと分かる無機質な鋼鉄製の寝台の上段で、グラッドは身体を横たえながら、額に手を乗せてぼんやりと天井を見つめていた。そこに張られたパネルには何のためなのか、丸い小さな穴が等間隔に開いていて、その数を数えていたのである。瞬きするたびにどこまで数えたかが分からなくなってしまって、それはなかなか終わらなかった。
 パネル一枚分を数え終わることもできないうちに、部屋のドアがノックもなしに開いた。ささやかな暇潰しを溜息とともに諦めて、寝台の縁から身を乗り出す。彼と同室の男が立っていた。彼よりもいくぶん若く、生意気そうな顔には人懐っこい笑みが張り付いたように湛えられていて、それが彼を見上げているのだった。
「寝てたのか?」
「いや」
 そう答えると、部屋に入ってきた男は書き物机の天板に腰掛けて、懐から煙草の袋を取り出した。グラッドはそれを見下ろしながら、自分にも煙草があったら、退屈で孤独な時間を埋めることができるだろうかと考えた。少なくとも、天井の穴を数え上げるよりは、よっぽど楽しいに違いない。
「今夜ヒマ?」と、男はマッチの火を煙草に移しながら訊いた。
「ああ」
「どこか出かけないか? ラッセルやアリクも呼んであるんだ」
「どこへ?」
「どこって、そりゃあ……」と男は言葉尻を浮かせて、意味ありげに口を斜めに歪めて肩を竦めた。
 勿論、グラッドもこの近辺にあるらしい店の事は知っていた。酒も女も置いてあって、毎週末にはそのどちらか、あるいは両方によって朝の点呼に間に合わない奴が出ているらしい。自分も以前の連隊にいた頃に、そんな体験をした事がある。
「やめておくよ」
 彼がそう答えると、男は「やっぱりな」と鼻で笑うような溜息を吐いた。「まだ続いてるの?」
「何がだよ?」
「例の彼女」
「ああ」そう答える彼の言葉には、やや自慢げな響きが混じっていたかもしれない。
「だろうな。こんなのが届いてるんだから」
 男が陣羽織の内側から勿体をつけて取り出したものを見た瞬間、グラッドは寝台から転がり落ちるようにして飛び降りていた。そして男の指先につままれた小さな封筒を掴み取ろうとしたが、男はそれを面白がっていちいち遠ざけるように腕をめまぐるしく動かすのだ。
「寄越せよ」
「ヤなこった。んー、良い匂い!」と、男は封筒を鼻先へもってきて、わざとらしく息を吸い込んだ。ただの悪ふざけだったが、グラッドは多少殺気立った様子で封筒を荒々しくひったくると、それを抱えるようにして再び寝台の上によじ登ってしまった。
「なぁ、例の彼女だろ?」
「ほっとけ」とグラッドは吐き捨てながら、封筒をひっくりかえして差出人の名前を見る。綴りを見るまでもなく、そのどうしようもなく愛らしい、筆記体と活字体の相半ばした筆跡から、誰から送られてきた手紙なのか即座に判じられた。
「早く読んでくれよ」
「さっさと出かけちまえよ」そういう彼の口調は、どこか楽しそうだった。突っ慳貪なのは何も心底うんざりしているわけではない。軍隊というのは、誰だって多少は言葉が汚くなる場所なのである。
「何、そんなすげぇ内容なの?」
「かもな」
「明日でいいから教えてくれよ」
「気が向いたらな」
「うん、そいじゃ!」
 男は書き物机の上の灰皿に煙草を押し付けると、肩を二、三度ぽきぽきと鳴らして部屋を出て行きかけたが、ふと立ち止まって「最近会ったか?」と低い声で言った。
「誰に?」とグラッド。
「その例の彼女」
 急に、グラッドは部屋が薄闇の中に沈んでいることに気付いた。窓から見る外の景色は紺色をしていて、木々や地面が陰鬱な色で横たわっていた。彼は何も言わなかった。相変わらずベッドの上で仰向けになっていたので男の表情は分からなかったが、わざわざ身を乗り出してそれを見る気にはなれなかった。
「……休暇がもうちょっと多ければなあ」
 しばらくの後、男はそんな飄げたような呟きを漏らして、部屋を出て行った。ドアが閉まる音が響いた後も、グラッドは仰向けになって胸の上にまだ開封もしていない手紙を乗せ、部屋が暗くなっていくのをぼんやりと意識していた。天井を見上げたが、パネルに開いた穴はもうかなり見難くなっていた。
 溜息とともに彼は再び寝台を降りると、机の上を手探りしてマッチを掴んだ。部屋に備え付けのランプの火屋を押し上げると、まだ微かに明るい窓にかざして燈芯の長さを調整し、マッチを擦った。急に弾けた閃光に目をしばたかせながら、火を燈芯に吸い込ませる。そして火屋を元に戻すと、マッチの燃え滓を灰皿に放り出して、書き物机の前にどっかりと腰を下ろした。
 封筒の表には例の可愛らしい筆跡で自分の名前と認識番号、連隊の番号が書かれていて、その上から軍事郵便のスタンプが無造作に押してあった。誰が押したのか知らないが、そいつの横っ面を張ってやりたくなった。
 ペーパ・ナイフで封筒を開けると、中には綺麗な桃色をした三枚の便箋が納められていた。折り畳まれていたそれを丁寧に開くと、彼はそれをランプの灯りにかざしながら、音読するかのように微かに口を動かしながら読み始めた。




 拝啓

 こんにちは。それともこんばんは? 手紙なんて今までそう書かなかったから、こういう時にどうやって書き出そうかといつも迷います。直接会えばこんな事を悩まなくてもすむのでしょうが、これだから手紙は難しいです(それとも私の書き方がまずいのかな?)
 別に書くことが面倒なわけではありません。最近はリシェルがきちんとした文章の書き方を教えてくれますし、自分でもなんとなく上達してきたような気がします。でも、喋るだけならともかく、こうやって考えて実際に書くまでにいろいろ考えると、途端に恥ずかしくなったりして書けなくなる言葉もたくさんあります。そういうのは、次会うまでに大事に取っておきますから、その時まで楽しみにしていてくださいね。
 トレイユは例によって平和。この前コーラルたちが遊びに来て、久しぶりにみんなで集まりました。そうそう、頂いたお手紙にあったことだけど、ミントお姉ちゃんと先生は案外いい感じに見えますよ。私塾の子供たちがよく噂してるけど、でも詳しい事はよく分かりませんでした。私としては上手くいって欲しいと思ってます。あなたもそう思いますよね?
 お店は順調です。この前、新しいパスタの味付けを思いついて、それをメニューに載せてみたら大評判! たまたまバタを焦がしちゃった時にひらめいた味付けだけど、ここまで人気が出るなんて、失敗から思いがけない成功が生まれるものですね。あなたにもいつかご馳走したいと思います。ああ、もう宿屋なんてやめちゃおうかな! ずっと食堂一本でやっていくのも良いかもしれませんね。でも、そうすると、あなたが帰ってきた時に泊める部屋が無くなっちゃいますね。どうしよう?
 そうそう、お手紙にあった怪我のことは、もう大丈夫ですか? 大した事がないような書き方でしたが、あなたが言う「大した事ない」はたまに大した事があるので心配です。ちゃんと冷やしました? どうかこれを読んでいる頃には快復していることを願っています。どうか身体のことだけには気をつけて下さい。
 やっぱり手紙は不自由ですね。ここまで読み返したんですが、訊きたい事の半分も訊けてませんし、言いたい事の四分の一も言い切れてません。まだ私の――




 そこまで読んだ時、部屋のドアがノックされた。便箋から顔を上げて「はい」と返事をすると、ドアが開いて最先任の曹長が顔を見せた。この中隊では最古参で、かつその下士官という親しみある階級から誰からも慕われる「おやじ」である。
 グラッドは椅子から立ち上がると、それなりの期間を軍隊で過ごしてきた男に特有の、過剰なわざとらしさもなければ素早さもなく、それでいてある種の威厳を感じさせる敬礼をしてみせた。曹長もそれ以上に年季の入った敬礼を返して、グラッドに再び座るように促した。
「出かけなかったのか?」
 曹長はそう尋ねた。そして、机の上に伏せられた便箋に目を落として、「だろうな」と小さく呟いた。
「曹長も出かけないんですか?」
「俺はトシだ。もう下向きだよ」
 そう言って自嘲めいた笑いを漏らしながら、煙草の袋をポケットから取り出して一本くわえ、グラッドにも勧めた。彼が丁重に断ると、書き物机の上に置いてあったマッチを取り上げて煙草に火を点けた。
「あの……何か自分に用事ですか?」
「ああ。お前の原隊から書類が回されてきてよ。もうすぐ任期終わるみたいじゃないか」
 グラッドは顔を上げた。しばらくその言葉の意味がよく飲み込めず、曹長の吸う煙草が赤く輝くのをぼんやりと見つめていた。
「どうするんだ? 隊に残るのか?」
「はい」
 間髪入れずにそう答えたが、曹長は何も言わず、表情すらも変えなかった。そして再び机の上の便箋に目をやると、それに何気ない素振りで手を伸ばしたが、グラッドが素早くそれらを掌で抑えた。曹長がグラッドを睨みつけたが、その瞳の奥には何かを面白がるような、優しげな光が湛えられているように見えた。
「女か」
「ええ」
「もう長いのか」
「たぶん」
「いくつだ」
「十……六?」
 曹長はふん、と鼻から小さく息を漏らした。笑ったのかもしれないが、グラッドを見下ろす目つきはどこか憐れむような、どことなく同情的な感じに見える。
「辞めちまえよ」
「は?」
「除隊しちまえ。ここは所帯持ちの来る隊じゃない」
「いえ、彼女はそういうんじゃ――」
「口答えする気か?」
 曹長の口調はやや冗談めかした風だったが、長年の習慣からか、グラッドは口を噤んだ。曹長はそんな彼の様子を見ながら煙草を大きく吸い込み、「大きなお世話かもしれんが」と前置きをして、鼻と口から盛大に煙を吐き出した。
「こんな仕事してたら、マトモな家庭なんて持てやしない。第一いつ死んじまうか分かったもんじゃないしな。そりゃ女に失礼だよ、おめえ」そして煙草を一口。「……それとも、適当に付き合ってる類の女か?」
「いいえ」強い口調だってので、自分でも驚いた。
「この隊でマトモな所帯持ちなんていないんだぜ。知ってたか、お前? ほとんど三行半だよ。俺のトコにゃいつも誰かの慰謝料やらガキの養育費やらの請求が舞い込んで来る。なんだかよ、こう、俺はお前がここに残ったら、そういうロクデナシの仲間入りをするように思えてならねぇ」
 煙草が吸いたい、とグラッドは思った。彼は煙草を吸ったことは無かったが、話に聞く限り、こういう時に気を紛らわせる効果があるらしい。今はそれが一番必要だった。
「つまり、自分が隊にとって不要な人間だと言う事だと理解してよろしいですか?」
「そうじゃねぇよ。よく聞けバカ」
 曹長は煙草を灰皿に捻じ込んで、呆れたように笑った。
「国家に奉仕するのも立派だが、そんなのはここの誰だって出来る。馬鹿でも出来る。だからバカがここに雁首揃えてるんだ。けどよ、女を幸せに出来る奴はここじゃ貴重だ。宝石みたいに貴重なんだよ。お前はここに居るよりも娑婆でカタギな暮らしをした方が、こう、もっとマシなんじゃないか?」
 彼は答えず、ただ強張った表情で曹長を見上げていた。ほとんど睨むような格好だったか、曹長はと言えば自分が連ねた言葉に自分で恥ずかしがるような顔をして、両手をぱしんと叩き合わせた。
「まぁ、そういうことだ――ジジイのお節介だと思ってくれれば良い」
「自分が望めば任期の継続も有り得ますか?」
「そりゃ勿論。本人次第だよ。何も今すぐ答えを出せって言ってるわけじゃない。しばらく考えておいてくれよ。いつでも相談しに来て良い」
 そう言うと、曹長は小さく右手を上げて、部屋をさっさと出て行ってしまった。後に残されたグラッドはそれから五分ほどというもの、椅子に腰掛けたままの姿でぼんやりと座っていたが、その視線は室内のどこかを見つめるというよりは、自分の思考の中を泳いでいく魚のような目つきだった。ようやく彼が右手を動かすと、汗ばんだ掌でやや湿り気を帯びた便箋がかさりと音を立てた。彼は初めてそれが手元にあったことを思い出したかのように手紙を手に取ると、どこまで読んだかを懸命に思い出しながら、続きを読み始めた。



 ――まだ書き方が未熟なのかな? きっとそれもあるでしょうが、やはり会って直接話したい事が多すぎます。どうして前に会った時(あの時のこと。覚えてますよね?)にもっとお話しておかなかったのかと、今になって後悔しています。今度はもっとちゃんと色々聞きたいし、色々話したいので、次はいつ頃帰ってこられるか、どうかお返事下さい。まだいつになるか分からないかもしれませんが、それでも構いません。それまでに話したい事や聞きたい事を忘れてしまうといけないので、リストを作っておこうかとも考えているくらい。そのリストがものすごく長くなる前には、またぜひあなたに会いたいと思います。

かしこ     
フェア




 手紙の末尾に記された名前を見つめたまま、グラッドは静かに座っていた。ようやく便箋から目を上げると、いまやすっかり暗くなって、室内の風景を反射している窓を見つめながら、あの山間の小さな宿場町を思い出した。そして目を閉じると、自分がその町の大通りを歩き、町外れへの小径を辿っていって、陽の当たるテラスから少女が走り出てきて、自分を迎えようとして抱きついてくる光景を想像した。再び目を開くと、彼は書き物机の抽斗を開けて、便箋の綴りやペンなどを取り出したが、彼の心は依然として少女と再会の抱擁を交わしていた。




きっとサリンジャーの『エズミに捧ぐ』の影響が入ってると言う人もいるだろうけれど
実際には『フラニー』にインスピレーションを受けた。手紙とか。

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