帰郷
列車がレールの繋ぎ目を渡る時の規則的な振動が身体を揺らす。
鼻につくのはオイルの匂い。ディーゼル車特有の低く唸るようなエンジン音。
セミクロスシート――僕以外には乗客はいない。ディーゼル車の一両編成。この地方では珍しい事じゃない。
浅い眠りから目が醒めると、列車に乗った時にはまだ窓の外に広がっていたはずのビルや小さな家々の姿が消えている。
今見えるのは青い空と緑色の地面だけだ。電柱は見えない。その光景に突き動かされるように僕は座席から腰を浮かせて、埃で固まったグリースをばりばりと落としながら窓を跳ね上げた。
ディーゼルエンジンの排ガスの匂いに混じって、懐かしい薫りがした。
七年離れていたにも関わらず、僕は自分の故郷の匂いを忘れていなかった。草と土の匂い。八月の日向の薫り。
僕の思い出の詰まった匂い。
今でも鮮明に思い出せる――僕の少年時代。
※
夏の暑さと匂いで最初に思い出すのは、一人の少女のことだ。
あゆかは僕の一つ下の女の子で、村の中で僕と同年代のただ一人の子供だった。人口の都市部への流入が手伝って、僕の住んでいた村は当時から子供が少なかった。僕とあゆかの他には一番近くて高校生の兄貴分か、おしめも取れないような赤ん坊だけだった。
つまり、あゆかは僕の唯一の友達だったわけだ。
小学校は全学年が一つのクラスで授業を受けるものだったから(当時はそれが当たり前だと思っていたけれど)、僕とあゆかは一日の大半を一緒に過ごしていたことになる。
確かに、思い出せば僕の少年時代の記憶はいつもあゆかと一緒だった。冬に積もる深い雪で遊ぶときも、夏の川に入って遊ぶ時もいつも一緒にいた。
それでも僕はやはり男の子で、あゆかは女の子だった。
そんな当たり前の事が分からない程僕とあゆかは近くにいたのだと思う。しかし今だからそう思えるだけで、僕もあゆかも恐らくは、その状況をそれこそ当たり前だと思っていたに違いない。
回りの大人が一線を引いたか――それはなかった。あくまで僕とあゆかは仲の良い子供にしか映らなかった。実際そうだった。
その均衡が狂ったのはいつだったろう。
※
無人駅には乗車券を入れる箱が置かれているだけで、後は誰も居なかった。
田舎の路線はこんなものだ。キセル乗車したって分かりやしないが、僕は生真面目に切符を買っていた。
切符を賽銭箱に似た箱の中に落とす。自販機のウィンドウの樹脂が黄色く曇っている。ぽつりと置かれたベンチ。退色した青い背もたれにアイスクリームの広告。
駅から出れば、そこは七年前と変わらない景色だった。あまり人工的な匂いのしない風景。八月の太陽は景色の陰影をくっきりと浮き立たせている。
みんな昔のままだ。だがそれは景色の話であって、住んでいる人間はどうなのだろうか?
あゆかは――あゆかは今でも僕を待っているのだろうか?
もしかしたら村を出てしまったのかもしれない。仕事を探しに都会へ出た、或いは“あの後”で両親に勘当された――理由なんて幾らでも思いつく。
それでも僕は歩き始めた。ここで諦めればこれまでの七年間が全て無駄になってしまうし、あゆかがまだここに留まっている可能性だってなくはないのだ。
いや、絶対に居るはずだ。
僕があゆかをこうして探しているように、あゆかが僕を求めていれば。
※
あゆかに初潮が来た。
僕が小学六年生の頃で、あゆかが五年生の時だ。当時の僕とあゆかはそれを病気だと思った。
学校の保健室へ診せに行って(村の医者が保健の先生でもあった)を先生に事情を話すと、どこか話しにくそうにしながらも親身に、全てを話してくれた。
あゆかの身に起こったこと。
それがどういった意味を持つことなのか。
きっと、それを聞いていた僕もあゆかも顔は真っ赤だったに違いない。
あゆかが『女の子』になった日だ。
僕にあゆかが『女の子』に映った日のことだ。
その日の出来事は、それ以降の毎日に薄いながらも暗い影を落とした。
言葉が見つからないが、敢えて形容すればわだかまりとでも言うのだろうか――それが僕とあゆかの間を隔てているような気がした。
それまでのあゆかは、僕にとってあゆかでしかなかった。女の子でも誰でもなく、あゆかだった。でも、今隣にいる女の子は、「女の子のあゆか」だった。
互いに身体の変化を意識してか、僕たちは次第に距離を取るようになった。
本当は離れたくなかった。
一緒にいたいのに、あゆかを女の子として意識すると、どうしても恥ずかしかった。
僕があゆかにそういう行為に及んでしまったら、という警戒心もあったのだと思う。
とにかく、離れるのは本心ではなかった。
本当はもっと一緒にいたかった。
いつも一緒にいたかった。
それなのに、体はいつのまにか僕とあゆかの心の距離を隔ててしまった。
※
あゆかの家は見つからなかった。
家屋自体はあった――昔の僕は気付かなかったが、あゆかの家族ははここを借家として借りて住んでいたのだった。
大家はすぐ近くの家に住んでいた。老婆――うっすらと記憶にあるような気がしないでもない。
「あの家に住んでいた西原さんがどうなさったかご存知ありませんか?」
僕は自分の身分とやってきた目的を適当に偽って、大家に訊ねた。
「越してったよ。二年――三年前かな? 街に出るって言って」
街=都会。
僕は胸騒ぎを覚えながら、
「どこへ行かれるかは聞いてませんか」
「聞いとらん――ただ、お嬢さんと御両親は別々に越してったねぇ」
「別々?」
訊き返すと、老婆はこくりと頷いた。
「どこへですか?」
今度は首を横に。
「そうですか……どうも」
僕は丁重に礼を言って、あゆかの家だった家を後にした。
※
僕に母親はいなかった。親父が言うには僕は捨て子で、コインロッカーの中に入っていたそうだ。
どこまでが本当か分からないが、親父も僕も進んでその話はしなかった。今となると、母親がいない寂しさを紛らわせるために冗談で言ったのか、或いは捨て子だという事を隠そうとしなかったのか。どっちともとれてしまう。
親父は普通の人だった。昼は畑を耕して、夜は僕の夕飯を作ってくれた。あゆかの両親とは個人的に知り合いらしく、畑二つを挟んで向かいの家に彼らは住んでいた。
僕とあゆかが親しくなったのも、それによるものかもしれない。
僕が中学三年生の頃だ。ということは、あゆかは二年生。
季節は夏だった――ただ空の色は透き通るような青ではなく、夕陽に焼ける赤だった。その日差しから逃れるように、僕たちは川に架かった橋の下に潜り込んでいた。
薄暗くてクモの巣や不健康な草が生える橋の下で、僕はあゆかに呼びかけた。
「あゆか」
「ん?」
あゆかが大きな目をこちらに向ける。その目の中に、まだ僕たちが小さかった頃にはなかった光を見てしまって、僕は少しだけ視線を反らす。
「あゆかは僕の事嫌い?」
答えは無かった。ただ、大きな目が視線を反らした僕の頬骨あたりに向けられているのが分かる。
沈黙が耐えられなくて、僕は続けていった。
「最近は特に距離置いてるように見えたから」
やっぱり答えはなかった。僕にもそれ以上話し掛ける言葉は残っていない。
薄暗い橋の下で、沈黙が降り積もるような錯覚を覚えた。沈黙が澱のように降ってきて、僕とあゆかを覆って、そしてさらに距離を隔ててしまう。
そんな錯覚を覚えた。
「そうかもね」
あゆかがポツリと言った。
夕陽がさらに地平線にめり込むだけの時間を経ても、会話の前後の繋がりが理解できたのは、皮肉にも沈黙そのものによってだった。
「さすがに恥ずかしいのかも」
あゆかはそれだけ言って、抱えた膝に顔を埋めた。膝の裏に回した手でスカートの裾を抑える――ひどく女らしい仕草。女の子のあゆか。
いつからあゆかは僕といる事に恥ずかしさを覚えるようになったのだろう。
それは僕だって同じ事だ――僕はいつからあゆかの中に女の子のあゆかを見出すようになったのか。
心の中で一緒にいることを望んでも、羞恥は二人の間に立ちはだかってそれを引き離してゆく。
「違う」
僕はあゆかを抱き寄せた。あゆかは驚きと恥ずかしさと恐れが混じった視線で僕を見つめる。子供の頃には決してしなかった表情。
それでも僕はあゆかを放さなかった。あゆかは何があってもあゆかなのだ。女の子であろうとも、それは僕のあゆかなのだ。
僕の大好きなあゆかだ。
あゆかは抵抗しなかった。僕は腕の中に抱えるように、本当に抱き締めていた。あゆかの女の子としての、柔らかく、温かい感触を始めて感じた。
まだ小さい頃のようにじゃれ合うようにではなく、僕は何かはっきりとした物を感じながら腕の中の想像以上に小さい肩を抱いていた。いつの間にかこれほど体格に差がついた事に愕然とした。
言葉など何も無かった。
ただ、僕の唇があゆかの唇と触れ、
そして、
※
それが僕の最後の夏の日だ。
僕はその行動を肯定するつもりもないし、間違いだとか言われればそれまでだ。
ただ――それ以外に何もできなかったのだ。
離れてゆく心を繋ぎ止めるために必要だったあの夕暮れの赤い時間。痛みと、それでも僕たちがすがりつこうとした何か。
或いはそうすることで心と心の隔たりを断ち切れると思ったのかもしれない。
全てが終わったあとの余韻の中で、僕とあゆかは確かに一緒だったと思う。行為そのものの意味なんてどうでもよかった。
ただ二人が一緒になれれば、それで十分だった。
ところで、昔見た映画にこういう話があった。白黒の映画だ。
少女が虫の墓を建てて、その墓標に少年が教会から盗んだ十字架を使う。勿論大人たちには秘密だ。
日を追うごとに虫の墓は増えて、少年はさらに十字架を盗む。あくまで密やかに。
しかし、それでも大人たちには結局全てが露見してしまう。
そして少年と少女の仲が引き裂かれる。そこで幕は下りる。何と言う映画だっただろうか。
題名はともかく、その映画の内容はもっともだとは思う。子供の隠し事なんて親や大人にはすぐばれてしまう物なのだ――遅かれ早かれ。
ただ若いときにはそれに気付かずに、秘密にしていると思っているだけなのだ。
映画の題名を思い出した。
『禁じられた遊び』だ。
※
二人の関係が親に知れたのは冬だった――よく隠しとおせた方だ。
しかし隠し事がその隠していた期間に比例して罪が重くなるという方程式から逃れられないのは、僕とあゆかの事も例外ではなかった。
あまり思い出したくない記憶だ。あゆかの両親を家に上げて、頭を下げつづけている親父の姿。申し訳なさそうに自分の部屋に篭もる僕。
大人達がどういう方向で話を付けたのかは知らない。ただ分かるのは、最終的に親父が僕を連れて村を出ることにしたという事だけだ。
無理もない話かもしれない――小さい村だったから。僕のことで世間体を気にしながら生活することもない。それに素直に従うのが親父への償いなのかもしれない。
ただ、もうあゆかには会えないのだ。
荷物が纏められた。たいした量でもなく、殆どは家と同時に売ったのだろうか。家具は残していく事にした。
大雪の日だったのは覚えている。灰色の空と同じ色をした地面が地平線の区別をあいまいにした立体感に欠ける景色を、僕と親父は一緒に駅へ向かって歩いたのだ。
その道の途中で、僕はあゆかに出会った。
冬用のコートと生活雑貨で一杯の大きな鞄を持っていた――買い物の帰り。
耳当て付きの帽子に覆われた顔を白い息が隠して、僕達とすれ違うように歩いてきた。こちらに気付かない振りをしながら僕の隣を通り過ぎようとして、
僕の手袋に何かを握らせた。
僕が振り返ると、同じ色の空と地面の彼方にあゆかの歩き去る背中が見えた――それが僕の見た最後のあゆかの姿だ。
立ち止まった僕に親父が「どうした?」と訊ねて、僕は何でもないと答えて再び歩き始めた。
手に握らせた紙片を開く。四つ折りにした大学ノートの切れ端。黒いボールペンのあゆかの字。
そこには、こうあった。
『待ってる』
列車の中で僕の隣に坐った親父は僕が手袋で握ったままにした紙片の事を何も訊かず、ただこう言った。
「好きだったんだろ?」
最後まで僕を怒ろうとしなかった親父だった。
今思い出しても――いや、今だからこそ思う。男手一人で僕を育ててくれて、僕がやった、人ならば過ちと呼ぶべき行為に理解を示してくれて、しかも深く詮索しないでくれた親父。
僕なんかには勿体ない親父だ。結局僕が彼に何も報いてあげられなかったのが、とても残念でならない。
親父は二年前に交通事故で死んだ。
※
あの頃は小さかった村も、今では家の数が増えていた。道を歩いていても、すれ違う人や畑などで仕事をする人の姿がちらほらある。
あゆかは一体どこへ行ってしまったのか。
両親と離れて、今どこにいるのか。
川沿いを歩く。そこも僕が居た頃から全く変わっていない。違うのは、橋の近くで膝まで浸かって遊ぶ子供の数が多い事か。
橋=最後の夏。
駄菓子屋が出来ていた――昔は確か煙草屋だった。ベンチが軒下に出されて、涼しい日陰を作っている。
僕はそこでチューブ入りのゼリーを一本買った。別に喉が渇いていたわけでもないが、ただベンチに坐って日差しから逃れたかった。
店の主人らしき中年の女性の差し出すゼリーを受け取って、飲み口を噛んで捻じ切り、一口飲んでからそのまま口に咥えてぶら下げていた。
僕の視線の向こうで、男女入り混じって川で遊ぶ子供たちの姿が見える――昔のあゆかを思い出す――僕もあゆかも互いの視線も気にせずに裸になっていた時代。
彼らの姿を見ながら、遂に僕は最後の可能性を持ち出した。僕が最後まで考える事を避けてきた一つの可能性。
あゆかはもうここには居ないのではないか。
もしかしたら、あの夏の日はもう決して戻って来はしないのではないか。
確かに待っていると約束してくれた。だが、それは約束であるが故に破られる可能性だって孕んでいるのだ。
あゆかは都会の方へ出てしまって、人と建物に紛れて、もう僕の手の届かない所へ行ってしまったのかもしれない。
視界に映る子供たちの姿が歪んだ――涙。それを見られないように、僕は背を丸めて顔を伏せた。嗚咽を飲み込んだ喉が「きゅぅ」と情けない音を出す。
駄菓子屋の主人の女性がどうかしたのかと声を掛けた。僕は暑いだけだと短く答えて、実際には震えていた。
怖かった。
あゆかが僕から遠ざかってゆくのが怖かった。寂しいのではなく、怖かった。
恐怖に喉が詰まる。内臓を吐き出しそうな感覚を覚えて、世界の平衡が崩れるような錯覚。
まるで昔、親父から貰った時計を失くした時のようだった。焦燥に駆られて、それでも何も出来ない。ただ、もう二度と戻ってこないという恐怖に震えるだけだ。
僕は今、何を失くそうとしているんだろう。
※
太陽が傾いて赤みを増す――夕陽、最後の夏の日。
口からぶら下げていたゼリーは太陽の熱で温まっていた。僕はそれを最後まで吸い上げて、ベンチの横の一斗缶に捨てた。
川から子供たちが上がってくる。服を脱いでいた子はそれを着直して、魚網やプラスティックの水槽を持って歩き始める。家へと帰る子。駄菓子屋へと寄る子。
駄菓子屋へと来た子はポケットから小銭を出して、それぞれ思い思いのお菓子を買っていた――銅色に光る光る十円玉。
夕陽に照らされた子供たちの顔。男の子、男の子、女の子、男の子――
女の子。
はっとして、僕はその子の顔を見直した。見覚えがある顔。なぜか僕はそれが勘違いではない事に自信があった。
「ちょっといいかな」
僕は声を掛けた――振り返る女の子。手には駄菓子の袋。
「なーに?」
「訊きたいんだけど、この辺りに――」
※
「ここ?」
一軒の家の前で僕が尋ねると、僕を案内してきた女の子はこくりと頷いた。
「そっか。じゃあお母さん呼んで来てくれるかな」
「うん」
女の子はそう言うと、家の中へと入っていった。家の表札を見る――手書きで『西原』。
小さな家の中から少女が母親を呼ぶ声がする。それに答える母親の声も小さく聞こえる。玄関の引き戸の擦りガラス向こうにその姿が見える。
引き戸が開けられて、そこに僕がよく知っている顔があった。その表情は突然の事に驚いて凍っている。
「ただいま」
僕は嬉しいはずなのに、なぜかおどけるように言った。
「あ……」
そう呟いて、爪先立ちで穿いた靴で、
あゆかは駆け寄ってきた。
あゆかが体中で抱きついてきて、僕がそれを受けるようにして抱き止めた。
「おかえり……。おかえり」
頭のすぐ横であゆかが言う。首筋が温かいもので濡れる。
泣いているあゆかの頭をそっと撫でてやって、僕は精一杯冷静になろうとして言う。
「泣くなよ。せっかく会えたんだから」
「でもっ、でもっ……」
あゆかは待っててくれた。僕が帰ってくると信じて、ずっと待っていた。
そして僕は今、帰ってきたのだ。
あゆかが僕を家の中へと導く。泣き腫れた目で笑う。嬉しさの表情。
僕が玄関で靴を脱ぐと、さっき僕を案内してきてくれた女の子がぼくを見て、あゆかに訊ねた。
「おかあさん、この人だれ?」
怪訝そうな表情。あゆかによく似ている。
「この人はね――」
※
※
※
近所の子供と遊ぶのぞみを迎えに行く――最近のお気に入りは虫だ。
土手へ行くと、数人で遊ぶ子供たちの一団があった。僕の居た頃よりも、年の違わない子供が増えている。
「のぞみー」
僕が叫ぶと、草に分け入って遊んでいた一人の女の子が顔を上げた。そして僕の姿を認めて、
「なーにー?」
「ご飯だって。お母さんが帰ってこいって言ってるー」
「はーい」
のぞみは答えると、友達に何か言って、そして手を振った。土手を駆け上がってくると、僕の手を取った。
「帰ろうか」
「うん!」
歩き出そうとして、僕は一度土手で遊ぶ子供たちを振り返った。夕焼けに照らされたその光景が、僕の記憶と重なる。
夕焼けの中、川原で遊んでいる少年と少女がいる。
『ねえ、この花なーんだ?』
『……タンポポ?』
『ぶーっ! セイヨウタンポポでした!』
『タンポポはタンポポだろ。いんちきだそれ』
『いんちきなんかじゃないもん』
『いんちきだよ。いんちきだ』
少年はそう言って少女を追いかけ、途端に少女が転ぶ。
『あ』
少年が駆け寄って少女を抱え起こす。少女の剥き出しの膝が擦れていて、血が出ていた。
少女の顔が泣き出す前の表情になる。少年は慌てた様子で、
『あっ、あゆか』
少女の膝に手を当てて、
『いたいのいたのとんでけっ!』
それを振り上げた。
振り上げた先には、オレンジ色の太陽が顔を半分覗かせて、少年と少女を見ていた。
それは僕とあゆかの夏の記憶だ。
何年も昔のまだこの村の子供が少なかった時代、僕とあゆかが一番近くにいられた頃の話だ。
「どうしたの、お父さん」
のぞみが不思議そうに僕の方を見る。
「……何でもないよ。行こう」
僕はそう言って、帰り道へと向き直った。真正面には夕陽。
「お母さんが待ってる」
ここは僕とあゆかが約した場所。
そして、これから生きてゆく場所。