アカ頭巾
かなり昔、しかし厳密に言えば20世紀の中ごろ、現実味溢れる言い方をすれば1962年の春のことだった。ソヴィエト連邦のノヴォガサガスクという地方に、人々から「シャポチカ」と呼ばれて親しまれている少女がいた。「帽子を被った女の子」といったような意味の渾名で、それは彼女が常に頭に載せていた赤い帽子に由来していた。時たま人々はこの少女を「クラスナヤ・シャポチカ」と呼んだが、それは彼女は一人の共産党員として捉えている時にもっぱら用いられた。シャポチカは若き青年共産主義同盟の一員であり、ソヴィエト社会主義の未来を担う子供というわけである。
「シャポチカや、ちょっと来ておくれ」
ある日のこと、シャポチカは母親から用事を言い付かった。
「なあに、マーマチカ?」
「村のはずれに住んでいるバーブシュカの所に、お使いに行って来ておくれ。この籠を届けて貰いたいんだよ」
「あら、いつもはマーマチカが行ってくれるじゃない。嫌だわ、あたし」
「今日は無理なんだよ、シャポチカ。アンドレイのとこの肉屋の前に行列が出来てる。母さんは行かなきゃいけない」
「何の行列かしら?」
「知るもんですか」
仕方なく、シャポチカは籠を手に取った。少女の細腕には、ずしりと重たい。
「やけに重たいわね、マーマチカ? 一体何が入ってるの?」
「黒パンにバター、今週の分の『アガニョーク(訳註:ソ連共産党の機関誌)』だよ」
「それにしては重すぎるわ。他にも何か入ってるんでしょう」
「それとウォトカの瓶が四、五本だわね」
シャポチカは納得したように頷いて、長靴に足を突っ込むと、帽子を深く被り直した。そして籠を腕に下げ、玄関口に立つと今一度母親の方を振り返った。
「行ってきます。お外はまだ寒そうね、マーマチカ」
「そんな事を言わないの、クラスナヤ・シャポチカ。お母さんがあなたくらいの時には、私はもっと寒い所でナチ公どもと戦ってたのよ」
「そうね。あたしのお使いが、マーマチカやパーパチカが大祖国戦争で経験した苦しみの一割だって苦しくない事を、ソヴィエト連邦英雄に感謝しなくちゃね」
「いい子ね、私の可愛いロシアの娘」
母親と別れると、シャポチカは街道をしっかりとした足取りで歩き始めた。街道はぬかるんでいたが、それによって脱輪した車はいなかった。泥濘には轍の痕さえもなかった。そもそも走る車がないのである。
じきに彼女は街道を外れて、野原の小径を歩き始めた。かすかに緑に色づいた大地は春の息吹を感じさせた。綻び出でた芽や小さな草花を見ていると、シャポチカの胸にはそれらを愛でたいという子供らしい純粋な欲望が芽生えたが、青年共産主義同盟の一員であるという自負と義務感がそれを抑え付けた。
「そうよ、シャポチカ」と彼女は自分に言い聞かせた。「あたしは共産主義者よ。マーマチカの言い付けは党の意思も同然なんだから、こんなところで道草をしちゃいけないのだわ。それなのに、ああ、あたしったら! 今度の集会で自己批判しなくちゃ」
そんな苦悩するソヴィエトロシア美少女を、遠くから見つめる男があった。変質者ではない。だがそれ以上に危険な人物である。彼はアメリカCIAの潜入工作員だった。長いことアカデミーで学び、ロシア人の癖や動作などを完璧に体得した男である。
「ズドラーストヴイ、お嬢さん」完璧なロシア語で、彼はシャポチカに話しかけた。「いいお天気ですね」
「ええ、とっても」シャポチカも笑って答えた。「ここで何をしてなさるの、アメリカ人さん?」
男は驚いた。「どうして分かるんだい」
「簡単よ。ソヴィエトロシアには百五十の民族がいるけど、黒人はいないもの」
アフリカ系アメリカ人のCIA工作員は、ポケットからハンカチを出して額に浮き出た脂汗を拭った。そして英語で何か悪態めいた事を呟いてから、再び努めて穏和な声で、「お嬢さんはどちらへ行かれるんですか?」と訊ねた。
「バーブシュカのお家にお使いに行くのよ。いつもはマーマチカが行くのだけれど、今日は忙しいんですって」
「それは感心ですね」
「あ、そうだ。その前に民警のおじさんのところに行かないと」
ミスタ・CIAは表情を強張らせて目を見開いた。肌が黒いだけに、いっそう白目が巨大に見える。「どうして? どうして民警に?」
「だってアメリカ人が村にいるんだもの。きっと米帝のスパイに違いないもの」
「私は違う」と男は慌てて弁解した。
「じゃあ亡命者?」
「いやそれも違うが……」
「なら米帝の狗よ。同志書記長が言っておられるもの。あなたたちアメリカ人は全て傲慢な帝国主義者で、ソヴィエト社会主義の破滅を目論む反革命の群れだって。この汚らわしいファシストめが!」
シャポチカは突如として叫ぶと、人差し指をびしっと工作員に向けて突き出した。
「あたしは、あなたたち黒人だけは共産主義を信じているものと思ってきたわ! だって、あなたたちはアメリカ人に搾取されてきた存在なんだもの。同志だと思ってたわ! それなのに、あなたは資本家の手先に成り下がってるのよ! アメリカンツィはみんな同じよ! きっと十月公園のど真ん中で吊るしてやるんだからね、覚悟しときなさいよ!」
そう捲くし立てると、シャポチカは野原を駆け戻り、街道を再び町の方角へと走り去っていった。残されたCIA工作員の男はしばらく呆然と立っていたが、やがてあの赤い帽子を被った少女が自分にトラブルを持って戻ってくるだろうことは容易に予想できた。追いかけようにも間に合わず、ここはさっさと逃げるに限る。
どこへ?
男は考えた。そういえば、さっきの少女は祖母の家へ行くと言っていた。それはこの先の森のどこかにあるに違いない。年寄り一人どうとでもなるし、町はずれの家ほど身を隠すに適した場所はないだろう。何より――そこで待ち伏せていれば、何年にも亘って周到に用意してきた浸透工作を頓挫せしめたあの少女に復讐する機会も訪れようというものだ。
森の中、といっても白樺の森であったから、春先とはいえ寒々しい景色だった。幹や枝は細く生っ白くて、まるで痩せ衰えた腕が宙を掻きむしっているように見える。そんな中に、シャポチカの祖母の家はあった。
みすぼらしい一軒家で、基礎がちょっぴり変わっていた。基礎はおびただしい数の鶏の足で出来ていた。その前に立ったCIA工作員の男は一瞬怖気をふるったが、すぐに我を取り戻して、ぎしぎし言う扉を引き開けた。
「こんにちは」
家の中には部屋が一つあるきりで、火の入らなくなって久しい台所、厚く埃を被った戸棚、そして1000年前からそこにありそうなベッドがあった。ベッドの上の毛布はこんもりと丸まって、まるで中に誰かが入っているようだった。
「こんにちは」
男がもう一度言うと、毛布はばさりと払いのけられ、中から鷲鼻をした顔面皺だらけの老婆が飛び上がって、目を限界まで見開いて叫んだ。
「あたしゃ違う! あたしゃコサックじゃない! 教会なんか行ったこともないし、神なんか信じちゃいない! 信じてくだされ!」
「落ち着けよ、婆さん」
男がそう言って宥めるように手を振ると、老婆はこれまた突然に平静を取り戻し、枕の下からウォッカの瓶を取り出して一気に呷った。入っているのが水だと言われても信じられそうな飲みっぷりだった。
「誰じゃお前は。ボリシェヴィキか」
「違う」
「ならいいわい。ふん、あのボリシェヴィキどもめが――わしが正教徒だというんで、何度も何度もあたしを痛めつけおって。前の戦争ではあたしの亭主を殺しやがった」
「第二次大戦のことか?」
「いんや」と老婆は首を振った。「十月革命じゃ」
今度はCIA工作員が頭を振った。老婆はまた一口ウォッカを飲んだ。
「あんた、顔が黒いじゃないかね。どうした? 煙突掃除かい」
「違う」
「じゃあラスプーチンかな」
「くそ、埒があかねぇ」
工作員は懐から拳銃を取り出すと、老婆に突き付けた。老婆の耄碌した言葉が止み、変わりに目玉が飛び出そうなほど目を見開いた。ウォッカの瓶は放さなかった。
「あんた、やはりボリシェヴィキの屑か!」
「違うと言ってるだろ! 静かにしろ!」
「あたしを殺しに来るのはボリシェヴィキしかいないんだよ! 聖ユーリーの存在を信じない馬鹿たれどもが! ボリシェヴィキじゃなかったら何だね、え? 赤軍くずれか――なんにしろ、あんたは神を知らないただのアホタレだね!」
男は引き金を絞った。減音器が下手な口笛のような音を出して、老婆の持つウォッカの瓶が砕け散った。老婆は割れた瓶と、そこから自分の腹の上にこぼれたアルコールを見てあんぐりと口を開けた。それが彼女を激昂させた。
「なんてことすんだい!」
「おとなしくしないと、その瓶みたいになるぜ」
「最近の若いのはまったく礼儀がなってないね! この一瓶を手に入れるのにどれだけ苦労してると思ってるんだい! この真っ黒くろ助のできそこないめが、お前をクジマーのおっかさんに――」
それ以上は聞いていられなかった。男は再び引き金を絞った。飛び出した弾丸は老婆の頭蓋骨に穴を開けて、彼女を聖ユーリーのもとへと送り込んでいた。
死体は隠されて、工作員の男はベッドにもぐりこんだ。年寄り独特の異臭がしたが、構っていられる場合ではなかった。毛布の下で拳銃を握り、シャポチカが祖母を訪ねてのこのこやって来るのを今か今かと待ちわびていた。
やがて、外から聞き覚えのある歌声が聞こえた。元気で快活そうな声が「すらーびしゃ、あーあっちぇーすとばー!」などと歌っている。
「こんばんは、バーブシュカ。シャポチカです。お使いに来ました」
「それはそれは」と男は作り声で応じた。「鍵は開いてるよ。お入り」
扉が開いた。
「バーブシュカ、元気だった?」
「ええ、お蔭様で」
「あらバーブシュカ、声がなんだか変よ?」
「それはね、風邪を引いてしまったのよ。喉がもう痛くて痛くて」
「バーブシュカ、体も大きくなったみたいよ」
「それはね、ようやく配給が回ってきたからよ」
シャポチカはベッドに近づくと、顔を寄せて、毛布の塊に接吻した。その中では、米帝のCIA工作員が復讐の時を今か今かと待ち構えている。
「そういえばね、さっきアメリカンツィに会ったわ」
「ほう、そうかい」
「とりあえず民警のおじさんに通報しておいたわ。そうしたら、『クラスナヤ・シャポチカは偉い娘だな』ですって! たぶん来週の『コムソモリスカヤ・プラウダ』に載るんじゃないかしら」
「どんな野郎だったの、そのアメリカーニェツは?」
「黒人よ。でもあれは悪い黒人よ。だってプロレタリアートに見えないもの」
「その黒人ってのは、」
突如、毛布がばさりと跳ね除けられて、あれよと言う間もなくシャポチカは床の絨毯の上に押し倒されていた。持っていた籠が放り出されて、中からウォッカの瓶がこぼれ落ちた。
「こんな顔だったかなァァアアア!?」
「……そんな」
事態が飲み込めないまま、シャポチカは両腕を頭の上で押さえつけられ、それでも気丈に問い詰めた。
「バーブシュカは、あたしのバーブシュカはどこにいるの!?」
「今は手前ェの事を心配した方がいいんじゃねェかなァ? あんな腐った老いぼれの事なんかよりもよォ!」
今や完全に興奮の極みにある男は、期せずして地元のアラバマ訛りがロシア語に顕れていた。
「手前ェのせいで浸透工作もオジャンだぜ。どう落とし前付けてもらおうかなァ」
「あたしを殺すつもりなの? このファシストの狗めが!」
「最後にはな。でも今は……」
そう言葉尻を浮かせたまま、男は黒人にありがちな白い歯を剥き出したステキな笑みを浮かべた。そして片手だけで少女の両腕を押さえつけながら、もう一方の手でシャポチカのシャツのボタンを引きちぎった。
「とりあえずその体で償ってもらおうか」
「やっ、やめなさいよ! お願い、やめて!」
「うるせぇ!」
バシッ、と鋭い平手打ちがシャポチカの頬に炸裂した。被っていた赤い帽子が弾け飛び、唇の端から血が一筋流れた。
「俺の逸物はアラバマ産だ。きっと気に入るぜ」
「アメリカ製が何よ! 今やラジオは日本製のが上なんだから! どうよ、東洋の猿どもにお株を奪われた気分は? 敗戦国のヤポーニェツに追い越されるような帝国主義者が笑わせるわ!」
「この野郎!」
またバシッ。ようやく少女は大人しくなる。
「まったく、これだから白人ってのは手に負えねぇ」
しかし、片手だけで事をこなすのは至難の業である。それに相手を屈服させたという確信もあったのだろう、男は少女を拘束する手を離した。
そして、その隙を見逃すようなシャポチカではなかった。そう、彼女はクラスナヤ・シャポチカ。「赤い帽子」の二つ名を持つ青年共産主義同盟の一員である。シャポチカは男に気取られぬように腕をそろそろと伸ばすと、絨毯の上に転がったウォッカの瓶を一つ手に取った。
「こんの……」
シャポチカは渾身の力を込めて、今や彼女を犯さんとしている憎きアメリカ人の頭めがけて瓶を振り下ろした。
「スイカでも喰ってろ、黒んぼがぁ!」
瓶は見事にCIA工作員の頭頂部に炸裂し、重たい衝撃音と共に男は頭を抱えて床をのたうち回った。その間にシャポチカは立ち上がると、すぐ近くにあった戸棚に瓶の口を叩きつけて割り、そこからザブザブと濃密なアルコールを呷った。半ば破れかかったシャツにこぼれるのも構わず、ほとんど上を向くようにして瓶の中身を自らの口腔と身体に注ぎかけている。
「いいかアメリカンツィ! このクラスナヤ・シャポチカが、今からお前をババ・ヤーガの所に送り込んでやる! 祖国と党と人民の名に於いて、お前なんか葬り去ってやるんだから! あんたみたいな地球の癌細胞は棺に詰めて貴様のお袋に届けてやる! きっとだからね!」
「舐めやがってこのガキが」
なんとか立ち上がった男は、震える手で右手の拳銃をシャポチカに突きつけた。目は血走っていたが、笑っている。
「偉そうな事言ってんじゃねぇ! どうやって俺様を殺すってェ? 武器もないだろうが。手前ェの武器は何だ!」
「共産主義よ!」
そう一喝すると、シャポチカはどこからか巨大な金鎚を取り出して、それをCIA工作員に向けて振り下ろした。ウォッカの瓶とは比べ物にならない破壊力が男の頭蓋骨を陥没させ、脳に一生回復できないダメージを負わせた。
男が倒れるのも構わず、シャポチカは次なる得物を取り出した――これまた大きな鎌である。それを手にしたまま身を屈めると、耳と鼻から血を出して小刻みに震えている男の頭を膝で抑えた。そして首の黒い皮膚に鎌の刃をあてがうと、ウォッカの魔法に駆られて少女は叫んだ。
「肉まで黒いか確かめちゃうぞ! フショー・グダァァァアア・ガトォォォオオフ!!」
ぐいぐい切り進んだ。
やがて、老婆の家の前を民警のモスクヴィッチが停まった。中から警官が降りてくるのと同時に、家の扉がゆっくりと開いて、中から血まみれになったシャポチカが出てきた。
「クラスナヤ・シャポチカ」と警官は言った。「今日は一段と赤いね」
「うん。帝国主義者の血よ」
「何があったんだい」
「あの黒人があたしのバーブシュカを殺したのよ」
「なんと」
「だからあたしが償わせてやったわ。奴の血でね!」
「パンにはパンを」
「血には血を!」
「それはいい事をしたね、シャポチカ。じゃあ、今日はもう帰りなさい」
「はい、民警のおじさん」
シャポチカは警官と別れると、白樺の森を抜けて、街道へと歩いていった。途中でエプロンのポケットから、お気に入りの帽子を取り出した。アメリカ人の返り血で汚れてはいたが、元が同じ色だったのでほとんど気にならなかった。シャポチカはそれをかぶって、あご紐をきつく締めた。その額の部分には、意匠化された金色の鎌と鎚が交差して輝いていた。