東方四号炉 〜 Zone of Alienation


 ここは幻想郷。
 ――という名前が付いたのは90年代に入ってからのことで、それ以前は「ポレーシェ」なんて適当な名前で呼ばれていた土地である。1986年に起きた、ちょっとした「異変」によって「外の世界」から隔絶されてしまい、今や死と危険と放射線、ついでにふたなり少女たちで満ち満ちたディストピアとなり果てている。
 そんな幻想郷の一角に、『聖致命女ハクリェイ大聖堂』はある。当代の巫女であるレイム・ハクリェイは献金箱の実入りが少ないことを気に病んでいるが、それにはきちんとした理由があった。そもそも幻想郷に住んでいる人間の数などたかが知れているのである。マトモな人間が生活するには、あと900年は問題がある土地なのだ。
 しかしその朝、大聖堂では司祭館の扉をドカンドカンと叩く少女の影があった。真っ黒なとんがり帽子に真っ黒なスカート、手にした箒はなんとなく魔女を彷彿とさせる姿だったが、実際彼女は魔法使いだった。ババ・ヤーガの下で想像を絶する修練を積んだ、帝国時代の秘儀を受け継ぐ最後の世代である。
「レイムゥー、開けておくれー。私だよ、同志マリサ・キリサメスカヤだよ」
 ようやく、レイム・ハクリェイが扉の隙間から顔を覗かせた。革命的な赤色に彩られた巫女服からは何故か腋と肩が露出していたが、それを奇異に思う者はこの幻想郷には居ない。他にもっと憂慮すべき事態が多すぎるのである。
「何しに来たのよ」
「КГБだ。臨検に来た」
「本当は?」
「ただの茶飲み話」
 レイムはしばらく扉の隙間から奇態な客を睨みつけていたが、じきに諦めたような溜息を吐くと、扉を大きく開けた。
「上がる前に、ちゃんと除染してよね」
 相変わらずセシウム137が猛威を振るう世界であった。
 司祭館の中に入ると、心優しきレイムはマリサに紅茶とジャムを提供した。どちらも聖堂の裏手にある畑から収穫した自家製のもので、生物濃縮された放射性降下物がたっぷりと詰まっていた。幻想郷の数少ない信者の間では、癌に効果があるとされて特に珍重されるものである。無知な連邦人民たちにとっては、ラドン温泉もストロンチウムも似たようなものであった。
「や、サンキュ」
 マリサは青く光り輝く液体を一口啜った。全身の細胞に力が漲るのを感じる。ホルミシス効果と言えなくもないが、実際には単なる偽薬効果である可能性の方が高い。
「外の世界のニュースは、何かあるかな?」
「さぁ。書記長が新しく替わるとか言ってたわね」
「へえ。何て奴?」
「メドヴェージェフ」
「熊みたいな名前だな。そんなのに書記長が勤まるのか」
 未だに「外の世界」では偉大なる連邦が存続していると勘違いしているのが御愛嬌である。それから彼女らは「赤い森」に生える巨大キノコの話や、「紅魔館」と呼ばれるダーチャに棲むノーメンクラツーラの噂話など花を咲かせた。また、最新版の『コムソモリスカヤ・文々。新聞』の記事(キエフでの穀物生産高が225%増進したという)について、気高き指導者の偉業を褒め称えたりもした。
 そんな平和な午前のひとときを満喫しているところへ、扉を蹴破る勢いで闖入してきた者がある。
「大変だよぅ!」
 果たしてそれは、赤毛を三つ編みにして両肩に下げた少女だった。何の脈絡もなく頭部に猫耳を供えてはいたが、その程度の突然変異は幻想郷に於いては日常茶飯事である。何しろ放射線まみれの土地であるから、イグアナだって五秒でゴジラに変身してしまうのだ。
「誰よアンタ」
「おいおいそりゃ酷いぜレイム。あれだよ、何だっけ……ノヴォシェペリチ村の……」
「あたいだよ、リンだよ!」
 ああ、と巫女と魔法使いは得心したように頷いた。
「で、何の用だぜ? 遂にアメリカンツィが攻めて来たのか?」
「キターイェツかもしれないわよ、マリサ。あいつらダマンスキー島に飽き足らず、遂にルーシの領土まで……」
「そうじゃない! そうじゃない!」
 そこでリンは大きく息を吸い、自らが口にしようとしている言葉に恐れ慄くように体を震わせると、幻想郷どころかモスクワまで届きそうな大声で、言った。
「お空が四号炉の運転を再開させようとしてるんだよぅ!」
「な、なんだってー!」
「な、なんだってー!」
 二人は思い切り椅子を蹴り倒して立ち上がると、ただでさえチェレンコフ光を放つ顔をさらに蒼白にした。
 四号炉というのは、幻想郷の中にある一種の施設で、「Ya・エーリン共産主義記念原子力発電所」が擁する原子炉の一基である。かつては幻想郷に留まらず、連邦全土に電力を供給していた原子力発電所群であるが、1986年の「異変」によって四号炉が機能を停止し、その事後処理としてコンクリート製の「石棺」により封印された。今ではその石棺と、残り三基の炉の保守を請け負う河童や天狗以外には近付く者とてない、幻想郷の最奥部である。
「……なんでまたあのアホ烏はそんなことを、」
「そんな事はどうだっていいぜレイム! さっさと止めに行かないと!」





 数分後、レイム・ハクリェイはマリサ・キリサメスカヤの運転するUAZに乗って、四号炉へと一路爆走していた。
「……ねぇ同志キリサメスカヤ」
「何だよ、改まった呼び方して。気持悪いぜ」
「どうしてUAZなんて持ってるの?」
 若き魔法使い少女は答えなかった。
 レイムは車内の内装を見回した。明らかに経年劣化と見られる汚れや錆が浮き出ていたが、運転席のパネルは奇妙なまでに新しく、ところどころ違う車種から移植されたようで統一感に欠けていた。まるで長らく放置されていた車輌をレストアしたような――
「まさか……」
「……悪かったよ」
 マリサは舌打ちを一つすると、ギアを入れ替えて、湿地帯をどろどろと走破しつつレイムと目を合わせた。
「ラソーハ村から引っ張ってきた。それをプリピャチ河に棲んでるあの河童に頼んで直してもらったんだ」
「降ろしなさいよ!」
 レイムは慌ててドアから外へと這い出た。そして放射線をたっぷりと吸い込んだ軍用車輌から逃げるように駆け出した時、図らずもそこが四号炉――「石棺」のすぐ近くだという事に気付いた。
「いつ来ても禍々しい雰囲気だぜ」
 降りてきたマリサがそんな事を呟いた。レイムも名状しがたい妖気を感じていたが、実際には妖気でも何でもなくてただの放射線であった。
 二人はYa・エーリン共産主義記念原子力発電所の敷地を横切ると、管理棟から制御室へと走り抜けた。1986年のある日、幻想郷を「外の世界」から切り離した諸悪の根源の中で――遂に彼女たちは、ウツホ・レイウジと対峙したのである。
「おいコラ鳥頭ァ!」
「やめなさいウツホ!」
 ウツホ・レイウジは一見普通の少女に見えたが、なんとなく空中浮遊している姿がちょっと異様であった。しかし、放射線に触れればニューメキシコ州の蟻だって巨大化するのである。空飛ぶ程度は朝飯前であった。
「もう遅いよ。炉心は完全に修復したから」
「いくらなんでも早すぎるぜ」
「プリピャチ河の河童に手伝ってもらっちゃった」
 巫女と魔法使いは頭を抱えて悶絶した。電子レンジだろうと原子炉だろうと、壊れている物なら直さずにはおけないエンジニアという人種の性格を、彼女たちは心から天に呪った。
「まぁそういう訳で、『核融合を操る程度の能力』の持ち主としては早速運転再開しないとね。はいポチッとな」
 そう言うと、烏少女はおもむろに制御板のスイッチを人差し指で突いた。核融合と核分裂の違いも分からない少女を生み出した、それは連邦のおざなりな教育制度が生んだ悲劇であった。
「やりおったァァァ!」
「マリサ! 撃ち落して!」
「言われなくても砲符『アフタマート』! アゴーイ!」
 蜂の巣になったウツホを悼む暇もなく、レイムは制御板の「防衛」ボタンを叩きつけるようにして押した。室内にサイレンが鳴り響き、壁に記されたディスプレイに制御棒の挿入状況が表示されていく。古めかしい豆電球の瞬きを見つめながら、巫女と魔法使いは幻想郷の数百の命と、キエフの人民の命の事を想いながら、どうか制御棒が反応を止めてくれる事を祈っていたが、
「ヴァー! 一本入ってないぞ!」
 ディスプレイのランプが一つだけ消えていた。つまり、そこに制御棒は入っていないことになる。原因はいくらでも考えられた――制御棒の挿入ガイドが歪んだとか、挿入機構が故障しているとか。とにかく、86年からロクな保守もされていないシステムであるから、何が起きてもおかしくなかった。
「これじゃみんな死んじゃうじゃない!」
「私に言ってもしょうがないぜ!」
 世界は着実に破滅への一途を辿っていたが、その時マリサの頭の中に革命的発想が閃いた。そして数秒のうちに意を決すると、泣き喚くレイムを尻目に制御室を出ようとした。
「待って、待って! どこ行くのよ!」
「手動で挿入するぜ」
「は?」
「炉心の真上には、制御棒を押し込むハンドルが付いてるって、何かで読んだ」
「そんな……そんな事したら、マリサが!」
「世界人民の命には換えられないぜ」
 引き止めるレイムの手を静かに払いのけると、連邦英雄マリサ・キリサメスカヤは制御室を出て行った。
「マリサぁっ!」
 その場に頽れて、たった今マリサが消えた扉に向けて手を差し伸べながら、レイムは叫んだ。何度名前を叫んでも、もう彼女が戻ってはこない事を知りながら――
「――おい」
 戻ってきた。
「見てきたら、止まってたぞ」
 呆気にとられたレイムには、マリサが何の話をしているのかよく飲み込めなかった。
「止まったって……何が……」
「反応」
 マリサは制御室を横切ると、壁の制御板によいしょとよじ登り、壁のディスプレイを見上げた。そこには相変わらず制御棒のステータスが表示されていて、やはり一本だけ点灯していないランプがある。
 しかし、彼女はランプのカバーを外すと、中の豆電球を引き抜いて、耳元で振った。
「切れてる」
「え」
「フィラメントが死んでる。つまり――制御棒は全部入ってた。ここで表示されなかっただけで」
 カァー、と烏が鳴いた。いつの間にかウツホが蘇生して逃げ去った際に残した声である。全身穴だらけにされたはずではあったが、放射線に触れればアメコミ主人公だって超人になるのである。
「……アホくさ。帰ろ帰ろ」
「腹減った。プリピャチにでも寄って行こうぜ」
「どこにする? 『オリンピヤ』?」
「『エネルゲティク』の隣にレストランなかったかな? 一度行ってみたかったんだ」
 巫女と魔法使いは行く。
 異変からゾーンを守るため。






 ゾーンの環境に詳しいWormwood Forest: A Natural History of Chernobylを著したMary Mycio女史に厚く御礼申し上げます。
 名前が発音できないけど。



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