「ただいまー」
「おか」
えり、と言おうとしたところで、タタンの動きが止まった。
玄関から入ってきたのはエッジとアーノ。アーノはいつもより慌てた様子で、そしてエッジは、
「ははは……またやっちゃった」
傷だらけの格好でへらへらと笑っていた。
「――ば」
「?」
「ばかぁ―――っ!」
ていうか、御者はここ入っちゃいけないんじゃねえの?
――クリスティアン・モルゲンシュテルン
「……ほんと、信じられない」
憤懣やるかたないといった風に語調を強めるタタンの手には、エッジの着ていた上着。今は至るところに小さな裂けや綻びが見受けられる。
そのすぐ脇に座るエッジは申し訳なさそうな笑いを浮かべて頭を掻いていた。額の生え際にはぞんざいに貼られた絆創膏、右の頬骨のあたりに小さな痣。
「なんで無理してそんなに強い相手と戦うかなぁ」
「そんなことないです! ご主人さまは頑張ったです!」
アーノが虚しく抗弁するが、もちろんタタンは聞いていない。上着の傷を見つけるたびに溜息をつき、ふと思い出したように、
「ひどい怪我しなかったでしょうね?」
そう訊ねた。
「大丈夫だよ。このへんだけ」
と、エッジは額の絆創膏を指差して見せる。アーノは自分が頑張って治癒魔法を掛けたおかげだと威張る。ならいいんだけど、とタタンは上着を改めながら、
「……あ」
同時にエッジもそれに気付いた。
上着の右脇腹のあたりに5センチほどの裂け目があった。それだけなら他の綻びと変わり無いものの、その裂け目の周りに淡く滲んだ紅い色が染み付いていた。
エッジの表情が見る見るうちに、隠し事が露見した時の子供のそれに変わっていく。続くタタンの怒声はまるきり母親のそれだった。
「怪我してるじゃないのよ!」
「うわ」
タタンがエッジに詰め寄って、脇腹を晒そうとシャツの裾を掴む。その手をエッジが抑える。アーノはタタンの剣幕に心底ビビっている。
「見せて!」
「大丈夫だって!」
「いいから見せて!!」
無理矢理にたくし上げられた。
それまでシャツに隠れていた右の脇腹のあたりに、ちょうど肋骨に沿うように皮膚が引き攣れたような傷跡があった。既に半ば塞がっているのはアーノの治癒魔法のおかげだろうか。大事はないようだった。
が、
「……なんで隠してたのよ!」
そう言うタタンの声には安堵ではなく、むしろ倍加する勢いで燃える怒りがあった。
「いや、だってほら――タタンが心配するから」
「心配するに決まってるでしょ!」
突如椅子を鳴らして立ち上がり、俯角を掛けて怒声を発するタタンに思わずエッジがたじろいだ。アーノは涙目になりながらあうあうと喘いでいた。
「なんでいつもいつも――むちゃくちゃなことばかりして心配ばかりかけるのよ! せっかくまた普段どおりの暮らしに戻ったと思ったのにエッジはいつも修業だ何だって、少しは心配する方の身にもなってみればいいでしょ!!」
あまりの剣幕に言葉を失ったエッジを無視して、タタンはテーブルに放り出してあった傷だらけの上着を引っ掴むと、踵を返して自室へと駆けていった。
エッジはしばし呆然とタタンの消えた階段を見つめながら、とりあえずシャツの裾を引き下ろした。そして額の絆創膏をさすりながら、いつになく真剣な表情で何かを考え込んでいた。
「…………」
「――ご主人さま?」
やっとの事で恐慌から回復したアーノが、難しい顔をしているエッジに心配そうな声をかけた。
「ん?」
「おでこ痛いですか?」
「ううん。痛くないよ。ありがと」
弱々しい笑みを浮かべて、エッジは椅子を立って工房へと向かった。足もどこか怪我をしていたのか、歩き方がどことなくぎこちない。
「ちょっと……一人にしてくれるかな、アーノ」
「あ、はいです。――あの、ご主人さま」
呼び止められて、エッジの足が止まった。
「タタンさん、さっき……」
「うん」
意味も無い肯定の返事で続きを遮りながら、エッジは工房の扉を開けて、それを後ろ手に閉めた。
重力に任せてベッドに倒れこんだ。
枕に頭突きをくれてやりながら、去り際のタタンの表情を思い出す。ものすごい剣幕で、あんなに怒鳴りながら、
それでも、タタンは確かに目に涙を浮かべていた。
いったい、全てはこの私を去ったのか?
人生を僅かでも素晴らしいものにする諸々は? ――ヘルマン・ヘッセ
蝶番が外れかねないほどの勢いでドアを閉めた。
タタンがドアに体をもたせたまま大きく溜息をつくと、それまで張り詰めていた何かが切れたのか、辛うじて目に留まっていた涙が頬を零れ落ちた。
全部エッジのせいだ、とタタンは思う。自分がどれほど心配しているかも知らないで、出かければ出かけたでいつもどこかしら傷をこさえて帰ってくる。
何より腹立たしいのは、自分がそこまで心配する理由をエッジが理解していない事だった。
「……っ、エッジのばかっ!」
小さく悪態をつきながら、手にしたエッジの上着を力任せに投げ付けた。空中でばさりと広がったそれはすぐに速度を失って、小さな棚の上に載った熊のぬいぐるみを巻き込んで床に落ちた。
あまりに子供っぽい自分の行動に自己嫌悪を感じながらも、タタンは熊と上着の事など知らぬげにベッドに倒れこんだ。そしてちょうどその頃エッジがそうしていたように枕を抱きかかえて、そこに顔を埋めた。
やっぱり世の中は不公平だと思う。自分はエッジを家族以上に想っているのに、エッジは家族としての優しさしか見せてくれない。わざわざカレーを作ってあげている意味を分かっていない。いつもは微笑ましく思えるエッジの鈍さも、今は狂おしいほどに疎ましいものでしかなかった。
どうして気付いてくれないのか。
もどかしさのあまりベッドの上でばたばたと犬掻きをした。手でシーツを掻き毟り、足でマットレスを乱打する。しばらくそうして、タタンは唐突にばたりと動きを止めた。
しばらく死んだように動かず、やがて、
「……片付けなきゃ」
散々当り散らして溜飲を下げたのか、タタンは墓場から這い出した死人のような動きでベッドから起き上がると、部屋を横切って、さきほどブン投げた上着と巻き添えを喰った熊のぬいぐるみを拾い上げた。こんな癇癪を起こす自分がタタンは嫌いだった。こうして後片付けをする事の間抜けさを考える時は特にそう思う。
「あーあ……」
溜息をつきながら熊を定位置に戻し、棚から裁縫具箱を取り出す。エッジの上着と箱を持ってベッドに腰掛けると、縫い針を取り出して、それに糸を通した。ぞんざいな動作にもかかわらず一回で糸が通った。
左手に上着を持って、最初に目に入った傷に針を入れる。タタンはちくちくと針を進めながら、どうしてあれだけ啖呵を切っておきながら、自分は律儀にも上着を繕ってあげてるんだろう――そんな事をぼんやりと考えていた。
激戦で酷使された剣は見るも無残な状態になっていた。
刃こぼれやへこみは数え切れず、幾多の攻撃を受け止めた刃の側面からは表面処理の黒が剥げ落ちていた。
しかしそんな損傷も、炉に向かったエッジの振り下ろすハンマーによって一つ一つ修復されてゆく。傷が鈍く痛み始め、しかもアーノが居ない作業は疲れも倍増したが、一人きりというのは余計な思考を頭から締め出すにはむしろ好都合だった。
だが、いつもなら没頭できる鍛冶の作業にも、今だけはエッジも集中することができなかった。手だけは寸分の狂いもない動きを繰り返しつつも、頭の中では走り去る間際のタタンの事を考えている。
どうしてあんなに怒ってたのか。
どうしてあの時タタンは泣いてたのか。
尋常な怒り方ではなかった。程度の話ではなく、あの時のタタンの怒りにはもっと何か別の感情が垣間見えた。それが何であるかを考えようとして、答えが見つかりそうになるたびに、それは掴んだ魚のように身を捩じらせて思考から漏れてしまう。
「……やめた」
小さく呟くと、エッジはハンマーと剣を金床に置いた。ゴーグルを外しながら大きく伸びをして立ち上がり、首を盛大にボキボキと鳴らしながら、
その時、コンコン、と工房の扉が鳴った。
「エッジ? いる?」
続いて聞こえてきたタタンの声に、エッジは思いっきり動揺した。あれだけ怒っていたタタンが、どうして何時間と経たないうちに自分を訪ねてきたのか。
仲直りの申し出に来たのか、
あるいは小言の続きか。
「……いるよ」
複雑な面持ちで見守る中、ドアの開く音が響き、タタンが工房の階段を降りて来た。手にはエッジがぼろぼろにして帰ってきた上着が抱えられている。
「エッジの上着だけど、これ……」
そう言って、タタンは奇麗に畳まれた上着をエッジに差し出した。
「その……直しておいてあげたから」
「え?」
先ほどの怒りようから修繕して返してくれるとは予想していなかっただけに、エッジは思わず呆けたような返事を返してしまった。とりあえず受け取った上着を広げてみると、至る所にあった傷が全て女の子らしい几帳面さで、丁寧に縫い合わせてあった。
「あ……ありがとう」
なんと言えばいいのか分からずに、やっとの事でエッジはそれだけ言った。そしてそんなありきたりな礼しかできない自分の凡夫っぷりを痛烈に恥じた。タタンは怒りを収めて、しかも上着を直してくれたのに、自分は気の利いたお礼すらできない。
「怒ってる?」
そう言ったのはエッジではなく、タタンの方だった。
「……なにを?」
「さっきの。わたしが怒ったりしたこと」
タタンは俯きながら続けた。真剣そうな表情を見ると、ふざけている訳ではないらしい。
「だって、エッジはエッジで一生懸命頑張ってるのに……わたしったら帰ってきたところを怒鳴りつけたりして。怪我してたのに、全然やさしくなかったし」
そして、ぺこりと頭を下げて言った。
「ごめん」
そんなタタンの姿を見て、エッジは胸苦しさを感じた。特に怪我をして帰ってきた時の件は、タタンに対して無神経すぎた自分の方に非があると思っていただけに、ことさら居心地が悪かった。
「いいよ、そんなこと」
なぜか頬が熱を持つのを感じながら、エッジは答えた。顔を上げたタタンをまっすぐ見ることが出来ず、金床の上に置きっぱなしだったハンマーと修理しかけの剣に視線を移した。
「ほんと?」
「うん。怒ってないから」
タタンの緊張が解けるのが気配で分かった。思わず目を向けると、猫のような柔らかな笑顔を浮かべたタタンと目が合った。
その瞬間、エッジの心臓がどくんと大きく跳ねた。胸苦しさが肺を締め付けた。頬が熱くなるのを感じ、そしてそれは炉の照り返しを受けて、傍目にはほとんど見分けがつかなかった。
「もうすぐご飯できるよ。そしたら一緒に食べよ? ね?」
タタンはそう言うと、立ち尽くしたままのエッジを一人残して、来た時とはうって変わって軽い足取りで工房を出て行った。
残されたエッジは自分の胸に渦巻く感情に翻弄され、混乱していた。タタンの笑顔の中に垣間見えた玄妙な何かがひどく心を騒がせた。いつも見ていた筈なのに、今までその意味を見誤っていた何か。
そしてそれが何であるかということに、エッジは遂に気付いてしまった。
――よりにもよって。
「……はぁ」
思わず漏れた溜息には様々な思索が絡まっていた。エッジは金床に乗っていた剣を取り上げて、それを鞘に収めた。
修理はまだ終わっていなかったが、出かけるには必要だった。
どのみち、この調子で鍛冶を続けるのは無理な気がした。鞘をベルトで腰に下げて、柄がちょうど右腰の後ろにくるように背中に回す。
最後にタタンの直してくれた上着を羽織ろうとして、ふと思いついて上着の布地に顔を埋めてみた。鼻先で傷を縫い合わせた痕を探り、この服を繕ったタタンの匂いが残っているかもしれないと思って、浅く息を吸い込んだ。
自分の汗と埃の匂いしかしなかった。
しかし私は貴方達の手を取った
私の愛が子供じみていて、遊びたがったがゆえに。 ――エルゼ・ラスカー=シューラー
風の封刃砦とはその昔、ゴウラを封印するための魔刃が収められていた場所の事で、ついでに言えばさる高名な召喚師が寝起きしていたという荘厳な石造りの建物だった。
らしい。
“らしい”というのは、エッジ自身は砦がそういう使われ方をしていた頃を知らないためだった。なんとなく静謐さの漂う空気や、森の中にぽつんと孤立して建っている立地条件を考えると、確かにそこはかつて何か謎めいた場所であったのだろうとエッジは思う。
だが新たな家人であるガブリオが住み着いた砦には、かつての雰囲気などカケラも残されていなかった。
「……そんなことがあったんだ」
そんな呟きを漏らしたガブリオと向かい合って座るのは、事の顛末を語り終えたエッジだった。砦に住み着いている空犬を膝に抱きかかえて、その頭をわしゃわしゃと撫でている。
「どうしたらいいかな」
空犬の頭に顎を乗っけながら、エッジがぼんやりと呟いた。空犬は舌をだらりと垂らしたアホ面で脱力しきっている。
「というか……タタンが僕のことあんな風に想ってるなんて知らなかった」
何をいまさら――と、ガブリオは心の中でそっと呟いた。第三者であるガブリオから見ても、タタンの好意の寄せ方は度を越えていたのに、よくもまあエッジは今まで気付かなかったものだと思う。
これではタタンも浮かばれまい。
「エッジはどうなの?」
ガブリオがそう訊ねると、エッジは空犬にぐりぐりと擦りつけていた頭を上げて、間の抜けた返事を返した。
「僕?」
「そう。キミはタタンのこと、その――どう思ってるのか」
エッジはしばらく考えながら、空犬の頭に顎を乗せてかくかくしていた。それが気持ちいいのか、空犬は低い声で喉を鳴らし続けている。
「……正直分からないよ」
「何それ」
「僕だってタタンの事は好きだけど、それが家族としてなのか、それとも――」
エッジは、続く言葉を敢えて口にしなかった。
「――僕には分からない」
そして、声のトーンを落として付け加えた。
「……だいいち、タタンは親方の子だし」
つまりはそういう事なのだと思う。
タタンは他ならぬ自分の恩人の娘であって、そして自分の家族だった。たとえ本当の家族でないという事実が心の隙に付け込もうとも、家族のように暮らしてゆくのが当然だと――エッジはそう思っていた。
「……エッジって偉いよね」
ガブリオの言葉に、エッジは返事を返さなかった。召喚獣なりに話の流れを察しているのか、いつしか空犬も喉を鳴らすのをやめていた。
「でも、エッジはもう少し自分を出してもいいと思うよ。周りがどうとかじゃなくて、自分がどうしたいかで物事を決めるとか」
そしてガブリオは続けた。
「だって、エッジは自分だけ我慢しようとするから」
「そうかな」
エッジとしては、自分がそんな人間に見られている事が少し意外だった。
或いはガブリオだからこそ、エッジ自身も気付かないような面を見ることができたのかもしれない。
「そうだよ。だから親方の子だからとかじゃなくて、エッジが思ったとおりにタタンに接してあげれば――それでいいんじゃないかな」
日はとっぷりと暮れていた。
そろそろ帰るよ、と言って席を立ったエッジに、ガブリオは最後にこう言った。
「僕がこんなこと言うのも変だけど」
そう言って、自分がこれから言う台詞の恥ずかしさに照れるような笑いの後、
「自分を好いてくれる人と一緒に暮らせるのは素敵な事だと思うよ」
そして今、エッジはクリーフ村への帰路をゆっくりと歩いていた。林冠から差し込む月の僅かな光だけで迷う事もなく進んでゆく。普段なら恐怖を催すだろう闇や木々のざわめきも、今のエッジには意識する余裕すらない。
タタンの想いにどう応えてやればいいのか分からなかった。
それどころか、自分がタタンをどう思っているかすらも分からなかった。
自分の感情の拙さに歯噛みする。タタンの想いに気付かなかった自分も情けなければ、それをどうやって受け入れれば良いのか分からない自分ももどかしい。
歩きながら、エッジは上着の布地にそっと指を滑らせた。指先に触れる丁寧な縫い痕。怒らせるほどに心配をかけたのに、タタンはこうやってきちんと服を修繕してくれた。こんな優しさを見せてくれる時も、きっとタタンは翳でエッジの冒す無茶や無謀に胸を痛めていたに違いないのだ。
もっと想いを汲んでやるべきだったのに――もう遅いだろうか。
このまま、自分とタタンの想いは行き違ったままなのだろうか――エッジはそう考えて、吹き付ける冷たい夜風に小さく身体を震わせた。
考えながら歩くうちに周囲を囲む木々は消えて、見慣れたクリーフ村の風景がそれにとって代わっていた。団欒の灯が点る家々を通り過ぎ、音を立てて流れ落ちる滝を後にして、エッジは家へと帰り着いた。
「ただいま」
玄関を跨いですぐの居間には夕餉の匂いが――というよりは、夕餉の後の匂いが漂っていた。タタン特製の、エッジが大好きだからと得意になって作るカレーの匂い。しかし食卓には皿も載っておらず、代わりに食後の紅茶の入ったカップが三つ、オルカとベルグとアーノの前に置かれていた。
「どこ行ってたんだ?」
ベルグが読んでいた本から顔を上げて、穏やかに訊ねた。そしてエッジの答えを待たずに、
「――まあ何だ、どこに行ったかを訊くのは野暮かもしれんが、夕飯には間に合わせないといけないな。タタンが怒ってたぞ。夕飯時なのに居ないって」
「すごくおっかなかったですよ?」
最後にアーノがそう付け加えたが、もはやエッジは聞いていなかった。ただ呆けたように立ち尽くして、これ以上ないくらいに自分の迂闊さを呪った。
何が迂闊かと言われれば、これほど迂闊な事も無いだろう――タタンと仲直りしたその直後の夕飯をフけるなんて。
「……タタンは?」
「怒ってどこか出かけたよ。どこかは知らない」
血の気がすーっと引いて行くのを感じた。
「――タタンと何かあったのか? おい」
オルカが心配そうに訊ねるが、エッジは力なくかぶりを振った。普段するような誤魔化しの笑みも、言い訳の言葉もなかった。
怪訝そうに見守る三つの視線を背中に受けながら、エッジはふらふらと玄関扉へと向かっていった。力ない足音が扉の閉まる音と共に聞こえなくなると、居間には再び静寂が訪れた。
「……ご主人さま、どうしたですか?」
「喧嘩でもしたかな。……なぁ親父」
オルカに意見を求められたベルグは、紅茶のカップを覗き込みながら何かを考え込んでいた。まるでカップの中に何かを捜し求めているような様子だったが、やがて、
「まあ、何だ」
しばらくして、ベルグは目を細めて笑った。
「きっと色々とあるんだろうな」
待ってくれ! 今しばらくその姿に安らぎを見出させてくれ! ――ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ
エッジが大慌てでタタンを探しに出かけた頃、当のタタンは一人で地面に座り込み、膝を抱えていじけていた。晴れがましい程に丸い月がその小さな姿を照らし出している。
そこは昔、エッジの家があった場所だった。いつもタタンが夜に散歩に出るとすれば村の広場なのだが、今日に限ってここを選んだのは――他でもない、自分を探しに来るであろう人間への当て付けである。
「……エッジのばか」
今日で何度目かになる台詞を再び呟く。何も晩飯をすっぽかされたくらいとは思うが、仮にも渾身の愛情を込めて作った特製カレーである。それをフケられたとあっては、タタンもハラの虫が収まらなかった。しかし同時に、エッジにはなけなしの――実際にはかなりの――恩情をも併せ持っているので、ここまで自分を迎えに来たら、本当に反省の色が見えていたら、その時は許してあげようかな……と、そんな事も考えている。
つまり、タタンは拗ねている最中だった。まるで駄々っ子が母親にそうするように、エッジの迎えを期待しながらも容易には見つかり得ない場所に腰を下ろし、スフィンクスよろしく待ち続けているのだ。
「……まだ帰ってこないのかな、エッジ」
待っているのも退屈になって、タタンはそう口に出して言ってみた。いや、もうすぐ来るだろう。自分の事を大切に思ってくれているなら、きっと迎えに来てくれる。もし来なかったら――その時は、一週間の掃除当番がエッジに、傷心の毎日がタタンに降りかかる事になる。
ありったけの意気地を発揮して、タタンは一人ぽつねんと待ちつづけた。
「タタン?」
夜の静寂に響いたその声に振り向くと、少し離れた所にエッジが立っていた。金髪が月光に濡れたように光り、額に絆創膏を貼り付けて、縫い痕だらけの上着を着て、散々に探し回ったせいか息が上がっていた。
ようやく見つけた事で緩んだ頬は、しかしタタンの憮然とした表情を見た瞬間、再び元の物哀しそうな顔に戻る。なんとなく胸が痛まないでもなかったが、タタンにしてみればそう感じる謂れなどこれっぽちもなかった。
そもそも、反省するまでは冷たくあしらってやるものと決めている。
「……話したい事があるんだけど」
「だめ」
冷たく断じて、タタンは再びエッジに背中を向けた。
「タタン……」
「知らない。晩ご飯すっぽかした罰なんだから」
それきり二人は黙った。しかしエッジは立ち去る気配は見せず、タタンは捨てられた仔犬のような視線を背中に感じて居心地が悪くなった。
――ずるい。どうして自分が後ろ髪を引かれるような思いをしなければならないのか。悪いのはエッジなのに。
「……ねえ」
沈黙に耐え切れず、タタンは訊ねた。無関心を装った好奇心が口調に滲み出ていた。
「どこ行ってたの? 晩ご飯のあいだ、どこにいたの?」
「ガブリオのとこ」
答えが返ってきた事にいくらかの安堵を覚えた。
「なんで? わざわざご飯の前に行かなくたっていいじゃない」
「それは……」
それきり、エッジは何も言わなかった。何かをぐるぐると考えている気配だけは伝わってきたが、そのどれ一つとして言葉にはならなかった。
「……タタンはさ、」
おずおずという感じでエッジが切り出した。
「タタンは、その――僕の事どういう風に思ってるの?」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃があった。
「――なによそれ」
「僕はタタンの事を本当の家族みたいに思ってる……けど、タタンはどうなのかなって。もしかしたら違うんじゃないかって。もっと、――」
エッジのその先を口にしなかった。タタンは突然の話に動揺していて、いつの間にかエッジがすぐ後ろに立っている事にもすぐには気付かなかった。
「――それでガブリオに相談しに行ってたんだ」
ようやくタタンが顔を上げると、エッジはすぐ隣ではにかんだような、しかしどことなく哀しそうな顔をして立っていた。
「隣、座ってもいい?」
そしてタタンが何も言わないうちに、すぐ隣に腰を下ろした。どことなくぎくしゃくした雰囲気のまま、タタンは馬鹿正直に真っ直ぐ前を見つめていた。
「いつ気付いたの?」
タタンが搾り出すように言ったその言葉に、エッジはぽかんとした不思議そうな顔をした。
「だから、わたしがエッジのこと――その――」
「……今日」
「今日?」
呆れも露わな鸚鵡返しの言葉に、エッジは慌てて取り繕う。
「で、でも、前からどうしてこんなに良くしてくれるんだろう、って思ってた。タタンって優しいなぁとか、そういう事はずっと前から」
それだけだった。エッジが思っていたのはそれだけで、結局タタンの想いには今日の今日まで気付かなかった。
どれほど鈍いんだろう。
「……なんで女の子が好きでもない人にカレー作らなきゃならないのよ」
タタンが憮然とした口調で、拗ねたように吐き捨てた。
「わたしにだって分からないわよ。理屈じゃないもん。ただ最初はエッジが頑張ってるのを見て凄いなとか格好いいなとか、応援したいなって思ってただけで、気付いたら――その――ずっと一緒に居たいとか思ってたり」
「一緒になら居られるじゃないか」
エッジが言葉を差し挟んだ。
「家族なんだから」
「そうじゃなくて!」
突然語気を荒げたタタンに、エッジは身を竦ませた。しかし構わずにタタンは続ける。
「意味分かってるの? 家族とかそういうのじゃなくて、普通のこっ……恋人みたいに一緒にいたいって言ってるのっ! なのになんでエッジには分からないのよエッジのバカぁっ!」
今まで秘めてきた想いをぶちまけて、しかしタタンには昂揚感も満足感も、想像していたような恥ずかしさも感じられなかった。
本に書いてあるような甘酸っぱい恋だと何だとか、そんなものは全部嘘だとタタンは思った。
ただ苦しくて切ないだけだった。
「……でも、」
タタンの剣幕に押されながらも、しかしエッジははっきりと言った。
「――僕は、家族でいたいんだ」
拒絶の意味にもとれるその言葉に、タタンはさしたる反応も見せなかった。さっきから重苦しい諦めの感情が胸を絞めていた事もあったが、それ以上にエッジの見せた表情がタタンの思考を全て蒸発させていた。
自分のよく知る思慕の情の影が、そこに見えたのだ。
「だってその方が……家族でいた方が近くにいられると思ったから」
タタンが呆然としている間に、エッジは続ける。
「……ずっと家族に憧れてたんだ。タタンと本当の家族みたいに一緒にいられたらどんなに素敵だろうって思って、いつもオルカが羨ましくって仕方無かった。だって僕じゃどう頑張ってもタタンの本当のお兄さんにはなれないから」
ようやくタタンにも理解できた。
エッジは家族としての絆を何よりも求めていたのだ。
「だから、タタンが僕の事どう思ってるのか、ほんとは知りたくなかった」
タタンは何も言わなかった。月が晴れがましく照らし出す草の上に座りながら、エッジが淋しげな笑いを浮かべているのをじっと見つめていた。
「変な話だね」
誰に言うでもなく、エッジが呟いた。
「一緒にいたいって思ってるのは同じなのに」
夜風が冷たくなってきた。
エッジとタタンは並んで草地に腰を下ろしながら、だがもう言葉は交わしていなかった。ただ空に浮かぶ思いがけなく奇麗な月と、紺色の空をぼんやりと眺めていた。「帰ろう」と言い出す切っ掛けも掴めないままに時間が過ぎてゆく。
「……寒くなってきたね」
体を縮こまらせながら、タタンが言った。エッジは何も言わず、タタンも特に返事を期待して言ったわけではなかった。
膝に顔を埋めて目を閉じていると、衣擦れの音が聞こえた。エッジがなにやらごそごそと動いているので見てみると、傷だらけの上着を脱いでいるところだった。
「……何してるの」
「何って、着なよ」
そう言って、エッジは上着をタタンの肩に掛けた。襟元を深く合わせようとして、唐突にその手が止まる。
「……あのさ、」
肩に手を掛けたままの格好で、エッジが言う。
「……さっきは家族でいたいって言ったけど、もしもタタンが望むなら、その――好き同士でもいい……んじゃないかな、って思う」
タタンが顔を上げる。少しだけ紅潮した、しかし真剣なエッジの表情が目に入る。彷徨う視線は、まるで言うべき言葉を虚空に捜し求めるような感じだった。
「一緒にいられるならそれでもいいんだけど、でも……」
そしてエッジはタタンの肩を掴むと、自らの方へ抱き寄せた。
愛おしさの余りというよりは、縋りつくような抱き方だった。まるで幼い子どもが不安に駆られて、お気に入りの毛布を求めるような、そんな抱擁。
「でも、少しでいいから――」
そして、タタンは耳元に吹き込まれるエッジの言葉を聞いた。
「――もう少し、家族でいさせて」
――君たちはどこへ行くんだい?
――どこでもないところ。 ――バートルト・ブレヒト
家族の絆を惜しむような抱擁が終わると、タタンはゆっくりとエッジの腕から逃れた。
「――帰ろう」
お尻を払ってから立ち上がると、片手で肩に掛けられた上着を抑えながら、もう片方の手でエッジの手を取った。おずおずと伸ばされた手をしっかりと掴んでエッジを立たせながら、笑顔で続ける。
「晩ご飯まだでしょ? カレー、ちゃんと取っといたんだから。帰ったら一緒に食べよ」
エッジの手を引いて、月光を背中に受けながら、タタンは路を歩いてゆく。隣を歩くエッジは、長い付き合いだった何かを失くしたような、そんな不安そうな笑みを浮かべている。
それを察してか、タタンは言った。
「急ぐことないよ」
「うん?」
訊ね返すエッジの腕に自分の腕を絡めながら、タタンは言う。
「今まで一緒に生きてきたんだから、これからも少しずつ……少しずつ、変わっていけばいいと思うよ。エッジも、わたしも」
「……そうだね」
背後に浮かぶ月が、二人の影を地面に落としていた。
それらはぴたりと寄り添っていたが、彼らがそのようになるのは、まだしばらく先の話。
神はどこだ? ――ヤニェク・シェノスキー