地平




私がいつから私であったのか。
それすらも考えないようになってから、もうかなりの年月が流れた。
記憶と呼ばれたものが時間の前に風化して消し飛んだ今となっては、私が自分を認識するための材料など一つもなくなってしまった。
そうした時間に於いて――人間が他者と相対的に自分を識別するとすればだが――私が存在するという事は私が生きているという事に裏付けられるものではなくて、それは私の存在を認識する他者の存在に拠るものなのだ。
それは、私が知る、私以外の人間のこと。
それは、私を知る、私以外の唯一の人間のこと。
ひとりの少女のこと。

世界は限りなく平たい。
遠くなったり近くなったり、広くなったり狭くなったりする空や黄金色と緑を行き来する草原。
そうした平たい世界に、私と少女は住んでいる。
「あの地面の途切れ目には何があるんだろうね」
私は地平を見ながら呟く。
「あの地面の途切れ目には誰がいるんだろうね」
「しらない」
少女は答える。長い髪。青い草の薫り。太陽の香り。
「世界の途切れ目はどこにあるんだろうね」
私は訊ねた。
私の問いに、少女はこちらを見て微笑みながら答える。
「そこにあるよ」
そう言って、少女は地平を指差す。
「わたしが見えるかぎりがわたしの世界で、その他にはなにもないの」
「きみの見えない処で誰かが生きていてもかい」
「ううん」
少女は首を振って否定する。「その他には誰もいないの」
「夜はいつの間にやってくるのかな」
「夜?」
不思議そうに首を傾げて、少女は答える。
「夜なんてないわ。だって、わたしが眠るあいだは世界もないもの」
「でも、きみが寝ている間にも私の世界は続いてる」
「それはあなたの世界だけよ」
“世界”が黄昏に染まる。染まっているのは少女の世界か、わたしの世界か、それとも両方か。

「きみにはどんな世界が見えてるのかな」
「わたしの見える世界」
「私の世界はきみにとってどう見えるんだろうね」
「そんなの分からないわ。だってわたしにはあなたの世界は見えないもの」
風が吹く。少女の髪がそれになびいて、草と同じように黄昏を映して輝く。
草と太陽の匂い。
「私の世界も君の世界も、ここにはないよ」
私は言った。
「ここにあるのは私と君がいる世界だけだよ」
少女は振り向いて、非難めいた目で私を見た。子供が見せる、悪意の視線。
「あるよ!」
そう叫んだ少女が草を小さな手に掴んで、一掴み千切った。そしてそれを
頭上にかざして、手を開いた。
オレンジ色の陰影を付けた青い草の破片が風に舞って私の方へ飛び、あっという間に後ろへ飛び去ってしまう。私はそれを追って振り向いて、草が世界の果てまで飛んでゆくのを見届けた。

振り返ると、そこに少女はいなかった。


世界は平たかった。黄昏とそれに彩られた草原に、私は一人で立ち尽くしていた。
誰からも見出される事もなく、私は“私の世界”に一人で立ち尽くしていた。




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