言葉など人間にはいらない。言葉がどれほど愛情を薄めているだろうか。人びとは言葉なくして得た愛情を、必ず言葉によって失っている。彼はこのように考えたのだった。

――星新一「月の光」







 病院の雰囲気というものが、僕はどうしても好きになれない。
 何が僕の気を滅入らせるのかは分からないけれど、少なくとも湿った空気や床板のリノリウムのいじけた柔らかさ、ロビーにたむろする老人の話し声が原因ではないと思う。それら一つ一つが重なり合って、この居心地の悪い雰囲気を作り出しているのは確かだろうけど、でもこの雰囲気の本質そのものではない。とにかく、それが何であるにしろ、ものすごく不健康な感じがする空気だ。こんな所にいるから、みんな快くならないのではないだろうか、と思う。
 カウンターへ足を運ぶと、顔見知りの女性が僕を見てにこりと笑った。笑顔を向ける程度の親しみがあるならば、来院者名簿を記入する手間を省略してくれても良さそうなものだったけれど、彼女は微笑んだままバインダーに挟んだ記入用紙を手渡してきた。
「またアユカちゃんの所?」
 女性は僕にそう尋ねたが、僕はアユカという名前に心当たりがなかったので、ボールペンを動かす手を止めて視線を上げた。
「えっと……いえ、森谷って子ですけど」
「うん、アユカちゃんね」
 僕はしばらく黙っていたけれど、じきにそれが森谷の下の名前なのかもしれないと思い当たって、再び名簿に必要事項を記入していった。それが全て済んでしまうと、もう一度上から項目を見直して、バインダーを女性に返した。
「はい、……大丈夫です。場所は分かる?」
「病室を移ったんですか?」
「いいえ。前とおんなじよ」
「じゃあ、分かります。ありがとう」
 僕は精一杯の感謝――というよりは、精一杯搾り出した感謝の気持ちで彼女にそう言うと、ロビーを横切って通路を歩き始めた。どの通路も窓が大きく、陽光を取り込んで明るくなるように工夫されていたけれど、蛍光灯の照明の方が明るいのが滑稽だった。中庭のような場所があって、葉の大きな植物が生えていたものの、なんだかワニやらトカゲやらがうようよしているような気がして、気味が悪かった。どこかの動物園で、爬虫類が入ったこんな水槽を見たことがある。
 エレベーター・ホールまで行かずに、僕は階段を上り始めた。使う人間が極端に少ないのか、壁の蛍光灯は黄色く濁り、階段に張られた床材は端が褐色に変色してめくれている。縦に長い空間なので、僕の足音が反響する。まるで僕以外の誰かがいるようだ。
 四階に辿り付くと、重く軋むドアを開けて廊下に出た。時々鉄製のペールや小さな引き出しが載ったワゴンが放置されていて、こんなのが置いてあったら危なくないかと思ったけれど、それを言ってやるような人間が辺りにいなかったので黙っていた。
 目的の病室に着くと、部屋番号の下の名札には「森谷綾由佳」と記してあった。何度も訪れたことがあるが、その名札に気付いたのは今回が初めてだった。受付にいた女性の発音を信じるならアユカと読むらしいが、綴りを見た限りはそうは思えない。部屋に入ったら本人に訊ねてみようかとも考えたけれど、当人に名前を訊くことの間抜けさを思って、その案は心の中にしまってしまった。
 ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が返ってきた。やけに重たい感触のドアを横にスライドさせて開ける。病室の中には、手前に洗面台と消毒液のボトル、右手に小さな戸棚とその上にテレビ(カードの度数に応じて電源を操作する機械が外付けされている)、そしてそのすぐ隣のベッドの上には少女が体を起こして座っていて、僕を見つめていた。
「いらっしゃい」
 彼女はそう言うと笑みを浮かべて、毛布で覆われた両腿の上に先ほどまで読んでいたらしい本を伏せて置いた。僕も知らないうちに微笑んでいた。自然な笑顔が出来るようになったのは、もしかしたら彼女のおかげかもしれない。
 僕は壁際に置いてあった椅子を引き寄せると、ベッドの脇に置いてそこに腰掛けた。そして、「調子はどう?」と訊いた。
「良い風に見える?」と彼女。
「いや……どうかな。分からない」
「あんまり良くないの」
「そう」
「どうしてそんなこと訊くの?」
 彼女が気色ばんだような語気になったので、僕は多少慌てた。
「別に。……ただの社交辞令だよ」
 言ってしまってから、僕はもうちょっと言葉を選べばよかったかもしれないと思った。彼女が僕を睨みつけたからだ。しかし、じきに恐ろしげな顔を維持するのに疲れたのか、彼女の顔は次第に笑みの形に崩れていって、鼻から笑いがくすくすと漏れた。何が面白いのかも分からなかったから、僕は腰の引けた格好でしばらく固まっていたかもしれない。
「嘘だよ」
「え、何が?」
「うん、なんだろうね。でも、嘘」
 僕は諦めて、肩から提げていた鞄を床に置いて、中から数葉の紙を取り出した。いくつかは講義で配布されたプリントの類で、残りは僕のノートのゼロックス・コピーだった。
「ありがとう」
 彼女はそう言って、ろくに見もせずにそれらをベッドの脇の戸棚の引き出しに仕舞った。
「学校はどう?」
「さぁ……変わりはないと思うけど」
「先生は何か言ってた?」
「どの先生?」
「上級文法の」
「何について?」
「私のことで。ほら、出席とか」
「特に何も」
 彼女はちょっと拗ねたように口を尖らせて、鼻から長く息を吐いた。そして伏せておいた本を取り上げると、スピンを挟み込んで閉じた。
「私、忘れられちゃってるのかなあ」
 本に視線をじっと落としながら、彼女はそう呟いた。僕はその本の題字を読み取ろうとしたけれど、僕の視力はあまり褒められたものではなかったし、そもそも表紙は光を反射して真っ白に見えた。
 彼女は忘れられるのを怖がっているのだろうか、と僕は考えた。
 それとも、それを期待しているのだろうか。
 彼女の口調からは、それが判然としない。
「時々、みんな私のこと忘れちゃったんじゃないかと思うよ。お医者さんも、最近は回ってこないし」
「お父さんとか、来てくれるんじゃない?」
「来るよ。でも、あんまり来ない」
「どうして?」
「さぁ……」
 彼女はそう言って笑ったが、苦々しげな笑いのようにも見えた。それから僕を見て、困ったような笑顔のまま口を開いた。
「でも、トーヤだって、いつか来てくれなくなるかもよ?」
 僕は咄嗟に何かを言おうとしたけれど、考えられそうな話にも思えたので、黙ってしまった。
 そういえば、どういう理由があって、僕は彼女を見舞いに来てるのだろう? そう自問してみたけれど、僕は納得のいく答えを出す事ができなかった。そもそも、彼女に会うために理由が必要だなどと、考えた事がなかったのだ。強いて言えば、見舞いに来ていけない理由がない、というくらいの理由だろうか。僕としてはごく自然な事のように思えるのだけど、もしかしたら、彼女にしてみればありがた迷惑なだけかもしれない。そう、考えてみれば、僕のような男が彼女の病室を訪ねるのは、彼女にとって不快な噂の種になることもあるだろう。そう考えて、僕は受付に居た女性の居心地の悪い笑顔を思い出した。そのことに思い至らなかっただけで、僕はなんだかひどく申し訳ない事をしたような気持ちになった。
「もしかして、邪魔かな?」
 彼女が顔を上げた。
「こう、余計な世話だと思うんなら、そう言ってくれれば――」
「違う、違うよ」と彼女は鋭く言った。「それは違う」
 彼女の視線が僕の瞳の奥を探るように見つめていたけど、僕は目を細めることでそれを遮った。そして視線を床に落とすと、開いた鞄の中の煙草のパッケイジが目に入った。
「ごめん……怒った?」
「怒ってない」
「怒ってる顔してる」
「元々こんなだよ」
 僕はそう言って、天井を見上げて頭を反らし、大きく溜息をついた。僕は昔から、人前でこの姿勢を取ると、なんだか首を絞められそうな気がして落ち着かないのだけれど、今なら彼女に殺されてもいいような気がした。
「疲れたんじゃない?」
「多分」と、天井を見つめたままの僕。
「もう帰る?」
「どうしようか」僕は少しだけ笑った。「もっといてほしい?」
 僕はしばらく笑ってたけれど、彼女が「いけない?」と答えたために、笑いは尻すぼみに消えた。最後に残ったのは僕の大きな溜息で、胸の中には嫌な感じが八割と、どろどろした安堵のような感情が二割。総合すれば不愉快な感覚。
「今日だって、いつトーヤが来てくれるか、そればっかり考えてたんだもの」
 その言葉は、なんとなく僕らのルールに反しているように思えた。
 もちろん彼女との間で取り決めた約束事などないし、そもそも何が癪に触るのか自分でも分からない。けれど、とにかく彼女がそういう事を言うことに対して、じゃりじゃりとした砂のような違和感を拭い切れなかった。
 僕はゆっくりと体を起こすと、再び彼女を見据えた。手は毛布を握り締めていて、視線は数秒だけ僕に向けられていたが、それから弱弱しく宙を彷徨った。
「ふうん」
 僕は、それだけ言った。
 僕ら二人とも、それ以上なにも言わなかった。
 自分の言葉がどことなく場違いだったと、彼女も思ったのだろう。
「煙草、喫ってきてもいい?」
 本当はあまり喫いたいとは思わなかったけれど、僕はこの病室から出て行く口実を設けるために、そう切り出した。もしかしたら、胸の裡のもやもやした空気を煙で燻して、消毒してやろうとしたのかもしれない。
「どこで?」
「屋上……かな。ロビーが禁煙だったから」
 僕はそう言って鞄の中から煙草のパッケイジと携帯灰皿を取り出すと、立ち上がって病室を出ようとした。
「待って」
 振り返った。
「私も行く」
 彼女はベッドから両足を下ろして、素足にバレー・シューズ(小学校で使われる上履きのような靴だ)をつっかけていた。肩にはいつの間にかカーディガンを羽織っている。
「煙草喫うの?」
「ううん、ううん、そうじゃなくて、私も屋上に行く、ってこと」
 僕はしばらく黙っていた。
 何か言ってやるべきだと思ったけれど、その全てが言葉になる前に消散してしまった。第一、彼女がどこに行こうと、それを僕が止める必要もないはずだった。仕方なく、僕は彼女の前に立って廊下を歩き始めたが、階段まで辿り付くと、僕は彼女を先に上らせるために立ち止まった。
「先に行って」
 彼女はきょとんとしたが、僕は続けた。
「倒れたら、受け止めないと」
 僕としては真っ当な事を言ったつもりだったのだけど、彼女は面白がるような笑顔を見せた。カーディガンの襟を片手で押さえて、もう一方の手で手摺を握りながら、ゆっくりと上り始める。時々振り返っては笑う彼女の後ろを、僕は二、三段遅れて連いていった。
 屋上に突き出たペントハウスの扉を開けた。普通の病院では施錠されているのだろうが、ここでは特にそういった事はない。一瞬だけ、不治の病に冒された患者なんかが絶望して飛び降りたりしないのだろうかと思ったけれど、周囲に背の高いフェンスが張り巡らされているのを見て納得した。一応の対策は施されているらしい。
 屋上には室外機がいくつかと、今は何も掛かっていない物干し竿の群、そして紫外線に炙られて白く脆くなった樹脂製のベンチがあった。そして、それらの全てが夕日を浴びて、暗いオレンジ色に輝いていた。
「私、これくらいの時間帯って好き」と彼女。「夕日って、奇麗じゃない?」
「寂しくなるよ」と、僕は煙草に火を点けながら言った。
「寂しい?」
「うん」
「どうして?」
「さぁ……どうしてかな」
 彼女はベンチにゆっくりと腰を下ろした。僕もそのすぐ隣に座って、最初の一口を大きな煙にして吐き出した。
 こうして見る夕空には、確かに圧倒されるほどの美しさがある。けれど、僕にはそれを的確に言い表す言葉がない。感情に似せて表現しようとすると「寂しい」しか思い浮かばないのだ。
 これは本当に「寂しい」という美しさなのだろうか。
 それとも、僕が知らない、全く新しい何かなのだろうか。
「寂しくならない?」
「私? うーん、どうだろう」
 彼女はしばらく夕日を見つめて考え込んでいた。僕もそちらに目を向けたけれど、彼女が捜し求めるようなものは何も見えなかった。
 それにしても、昼間はあんなに眩しい日差しが、夕方になると柔らかく見えるのはどうしてだろう。もしかしたら、太陽も一日の終わりには疲れてしまって、光が弱くなるのかもしれない。そんな事をぼんやりと考えていると、彼女は言葉を搾り出すようにして、考えながら呟いた。
「うん……泣きそうになることはあるよ、時々」
「それって、寂しいんじゃなくて?」
「ううん。寂しいんじゃなくて、多分……きっと、うん。なんなんだろうね」
 彼女の横顔をじっと見ていたけれど、彼女の瞳には涙の一滴も光っていなかった。今は泣きたい気分じゃないのかもしれない。そう考えたら、なぜだか少しだけ安心した。
 右手に持った煙草の灰が長くなってきたので、僕は携帯灰皿の蓋を開けて、そこに灰を振り落とした。そしてもう一口吸って、再び横目で彼女を見つめた。
「アユカ」
 彼女の横顔が、僕の方を向いた。その拍子に彼女の耳から髪が一房流れ落ちて、それを再び掻き上げながら、彼女は可笑しそうに笑った。
「どうしたの? 名前で呼んだりして」
「別に……さっき教わったから」
「教わった?」
「受付の人に」
「なにそれ。じゃあトーヤ、今まで私の下の名前知らなかったの?」
「ごめん」
 怒られるかと思ったけれど、彼女は笑った。そんなに笑ったら体に良くないんじゃないかと心配になるほど、笑い続けた。けれど、なんだか彼女の笑い声を聞いていたら、僕まで楽しいような気分になってきて、僕も一緒に笑った。
 ひとしきり笑うと、綾由佳は「可笑しい」と言って、僕を見つめた。
「ねぇ、綴り分かる? どういう字書くか」
「分かるよ」
 僕は説明してみせた。
「うん、そうそう。酷いと思わない?」
「え、何が?」
「これじゃアヤユカだよ。綾に由佳だもん。なのにアユカって読むしさ、真ん中の“由”要らないじゃない」
「リエゾンしたんじゃないかな」
「リエゾン?」
「ヤとユがさ。英語みたいに」
「ああ、そうかも」と彼女は言った。「リエゾンかぁ。傑作」
 そして、また彼女は笑った。
 僕は短くなってきた煙草をベンチの脚で揉み消し、吸殻を灰皿に仕舞った。再び顔を上げると、彼女が涙を流しているのに気付いて、慌てた。煙草の煙が目に入ったのかと思ったのだ。
「大丈夫?」
「何が?」
 どうして泣いてるのか、と訊こうとしたけれど、その質問をするのはなぜか躊躇われたので、僕は黙っていた。彼女は袖口で目を押さえて、口の端を震わせていた。
「リエゾンだって」と綾由佳は涙声で言った。「可笑しい」
 僕はきっと、困ったあまりに変な顔をしていたに違いない――彼女の泣き顔が、僕を見て、少しだけ笑みの形になったから。
 その笑顔は、涙で少し濡れていたけれど。
 なぜだか、僕はそれを見て、ひどく安心したような気持ちになった。






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