1月 2日(日)
とある地獄の黙示録(インデックス)



2日の仕事のシフトに入ってた筈の若い奴がバックレを決めて、危うく代理として出勤するところでした。
以上、挨拶です。
一応は目出度き新年でありますので、それなりに豪勢に祝っております。何本ものドイツ製のツェラー・シュヴァルツェカッツェが転がり、つまみ類の袋が散乱する部屋で駅伝を見ながら過ごしております。
そんな不精が祟ったのか、ちょっと太りました
普段からBMI指数が痩せ方向にヤバいChenowthとしては願ったり叶ったりという所ですが、やはり昨今の『痩せてりゃ最高』という風潮の中ではあまり嬉しくもありません。
まあいいや。どうせ仕事が始まれば嫌が応にも痩せるでしょうから。
ホント 現場で働くのは地獄だぜ! フゥハハハーハァー。


新年から仕事の話ばっかりするのも景気がいいとは言えないので、とりあえず今年の抱負のようなものを掲げてみたいと思います。
……いやね、別に今のままでも特に不満はないんですがね。何だかんだ言っても仕事の給料は悪くありませんし、一日一日のメシはきちんと食べられるし。
しかしこのまま30歳や40歳を迎えてしまうと、生物としての義務である子孫を残すというミッションが達成できない気がするので、真剣にそろそろ身を固める事も考えねばなりません。一応は長男ですから、過去脈々と受け継がれてきた我が家の血筋をここで絶やすわけにはいきません。我が家のダメ人間遺伝子を後世に遺す事こそ長男としての務めです。
……ってな話を友人と新年早々電話で話したら、

『いや、おまえんちの遺伝子もう残ってんじゃん。妹さんところの子がさ』

――――。
少しは遠慮して物言えよ。
まあそういうわけで、今年もきっとそんな感じで昨年と変わりなく過ぎていくのでしょう。惰性と愚鈍さだけで乗り切る一年
そんな感じの一年にはなるでしょうが、今年も当駄文ハイムと管理人をよろしくお願いいたします。
日記は今年もこんな感じですがね。



1月 4日(火)
ナボコフに謝れ。(挨拶)



本来なら仕事がある今日ですが、友人が実家から帰省したとの報せを受け、仕事をバックれて(注:一応連絡済み)今年初めての聖地巡礼を敢行してきました。
まずは中田商店のアメ横店と御徒町店でJ-TECH製品や旧東独軍のマップケースなんかを買い漁った上にモールスキンジャケットをオマケしてもらい、その後S&Grafへ向ってパラコードなんかを購入した後、同人誌を漁りにとらのあなへと向いました。
しかし、このとき悲劇は起きたのです。


とらのあなでは有明冬戦争が終わったばかりで委託販売がまさに始まった直後、しかも戦争へと参戦できなかった敗残兵たちが列を作っていました。
レジから伸びる戦士達の数は、30人はゆうにあろうか。
その上、列は『大作RPG』の棚にまで及び、サモ本を探すだけで列の流れに乗らなければ棚まで辿り着けないという始末。
ふざけろよオイ。
しかも何が悲しいといえば、これだけ戦士の群れに揉まれ、異様な熱気の中を這いずり回った挙句サモ本が一冊もゲトできなかったということでしょう。
……何だかんだ言って人気あるね、サモンナイト。


さて遂に解決をみた奈良の小学一年生女児誘拐殺害事件ですが。
ニュースでも繰り返し放送されているようですが、純粋なる少女の神聖を貶めた上にその命を奪い去った鬼畜のツラ拝んでやろうとテレビをつけましたら秋葉原シチズンの顔をした犯人の写真が繰り返し紹介されておりました。
これでまたオタクへの風当たりが強くなること必至です。ロリコンへの風当たりはもっと強くなります。アーノは風の子です(意味不明)。
……それにしても、『抵抗されたから殺した』という殺害の動機にはやはり首を傾げざるを得ません。
宮崎勤の時もそういった動機があったようですが、このアキバ顔は子供の純真さを『拒絶しないこと』『なにも疑わないこと』と解釈している故に抵抗され逆上し、殺害に至ったのではないかとChenowthは足りない脳ミソで考えるわけです。
実際に子供は純真であり純粋ですが、そうであるが故に自分の本能や気持ちには正直です。秋葉原シチズン顔の犯人が少女に何をしようとしたか知りませんが(知りたくもありませんが)不快感を感じれば「嫌だ」と言ったでしょう。
真にニンフェットを愛する人間ならばそうした拒絶なども許容するだけの広い心を持ち合わせているはずです。ハンバートを見習えハンバートを


そうしたわけで、下らない番組でよく分からない専門家に偉大なるキツいの大好きナボコフを祖とするロリコン達と彼らを混同して紹介されるのはChenowthとしては言語道断なわけであります。『フィギュア萌え族(仮)』などといった呼称は以ての外


……いや、分かってるけどさ。ロリコンと幼児性愛者の違いなんて突撃砲と戦車程度の違いしかないって事くらい。
傍目にゃ区別付きませんもの。



1月 11日(火)
オンリー・チャイルド(訳:子供だけしか愛せない)



ちょっと試験的に、これから先数回にわたり日記に使う文字色を赤と黄に限定してみようと思います。
折しもChenowthが過去の日記の色使いの猥雑さに悩んでいたところへ『過剰な装飾文字や色は本来の文章の魅力を損ねるのでは?』というアドバイスを頂いたもので。
全廃というのは流石にこの日記の売りであるエキセントリックさを損ねかねないので、とりあえず折衷案という形で。


新年に入ってからというもの、いつの間にかとてつもない量に達した積み本の消化に時間を割いている毎日であります。
そんなわけでジャック・ケッチャムの『地下室の箱』を読み終えました。
この作者の著書に共通するテーマである『理不尽な暴力』はやはり今回も炸裂しており、定価で買ったのでなければ二度と読み返したくないという非常にブラックな作品に仕上がっております。
巷ではその暴力的描写や心理的描写等に嫌悪感を露わにする人も少なくありませんが、ケッチャムの作品の真髄というのは“それまで被害を受けていた登場人物が、いざ反撃する段に至って信じられないほどの暴力性と攻撃性を剥き出しにする”というシーケンスだと思うのです。
当初はその狂気と暴力に虐げられつつも、仕返しする際に振るった暴力の快さに主人公が打ち震える――これは表面上『復讐』と形で完結しますが、主人公の中では、暴力の魅力に取り付かれたという点で悪役と同等の狂気を備えてしまうという結果になります。
ケッチャムの作品にはこのような『人間はいかに簡単に狂気に囚われるか』という例がたくさん詰め込まれています。


――とか何とか狂気にまみれた読書を終えて(『地下室の箱』の前には『ファントム』読了)、遂に、遂に

ポストガール最終巻読み始めます。

……いい加減ジャンルが正反対にあるような本を交互に読むのは精神的にアレな気がしないでもないですが。



1月 14日(金)
萌えという名の地獄(挨拶)



今日は特に話題もないので、日本の国防意識について話してみようと思います。
別にChenowthは戦争狂でも好戦的な人間でもありませんが、国際的には『国土(staatsgebiet)』『国民(staatsvolk)』『権力(staatsgewalt)』を満たして初めて国家として認められます。
ちなみにstaatgewaltを此処では“権力”と訳していますが、“gewalt”には直接的な暴力なども含まれるので、ここは“軍事力”としても何ら問題ないわけです。上の三つを以って国家と定義する説を提唱したゲオルグ・イェレネックも『物理的実力』と併記してありますし。
つまり日本が真に国家としてある為にはそうした軍事力/国防力が必要であり、それを蔑ろにすれば国自体が曖昧なものとなってしまいます。
国の滅びるという事は非常に惨めな事である事は歴史を紐解けばすぐに判ります。国土は強国或いは隣国に接収され、言語は奪われ、国歌はエロゲに流用されるという辛酸を舐めなければなりません。
つまり国家に於ける軍備とはそうした国家の底を成すとともに、他国の侵略を防ぐための防御力として機能するわけです。
しばしばその可能性が議論される『他国からの侵略』ですが、可能性そのものを検討するのは非常にナンセンスな事であり、国防というものは家の扉に鍵を掛けるがごとく『ウチは盗られる物なんて何もないけど一応掛けとこう』という程度のもので、実際来たら最小限機能する程度に留めておけばいいのです。
つまりは予想される事態であるか否かに関わらず、国家を形成する上で、またこうしたドアの鍵としての役割からも国防としての軍備は必要不可欠なわけです。


もちろん軍隊を持たない国というのは存在しますが、代表的なコスタリカには明らかに過剰装備の警察が国防を兼務しておりますし、ソマリアに至っては軍はおろか政府すらまともに機能しないのに国民みんなに行き渡るほどのAK自動小銃があり、侵略者が来訪した暁にはみんなでよってたかってフクロにするわけです。もちろんこれは国としても倫理的・人道的にも何ら問題ない行為であり、それが我が国日本に許されない道理はありません。


そういったわけで、日本は世界中の紛争地帯・被災地で活動する自衛隊を誇りにとは言わずとも、せめて蔑視するような風潮は排除すべきだと思う所存。
彼らが日々訓練を積むのも私たちが窮した時に救いの手を差し伸べるためであります。つまり私のためになるから応援してやる。頑張れ自衛隊。



1月 16日(日)
悲劇とは、どこにでもある物語のこと(挨拶)



典型的なオタクのスタイル、というものがあります。
以下に並べてみますと、


・ロン毛
・小太り
・メガネ
・アニメキャラのプリントされたTシャツ
・ボタンを絞めないチェック柄のワイシャツ
・ケミカルウォッシュのジーンズ
・アブラギッシュな臭気を発散させている
・デイパック乃至はショルダーバッグを愛用
・妙に早口



まだまだあるでしょうが、大体はこんな感じだと思います。
さて――ここからが本題なのですが、秋葉原界隈を足で歩いた事のある諸兄の中に上記の条件を満たすようなオタクを目にした方はいらっしゃいますでしょうか。
Chenowthは見たことがありません。
何よりChenowth本人もそれなりにオタクですが、もちろん眼鏡は掛けていませんし、現場で働く人間とは思えない程に貧弱な体型にユニクロのコーデュロイパンツ、独連邦軍パルカという前述の典型的オタクとは似ても似つかない出で立ちで秋葉原の往来を闊歩していたりします。
なぜ実際目にする事がなくともこのような人物像をオタクとして想起するのか――しばらく考えた末、Chenowthは遂にこのオタク像が人間の普遍的無意識に根ざす者だと結論付けました。
『普遍的無意識』とは心理学者カール・グスタフ・ユングにより提唱されたもので、『無意識』は『個人的無意識』と『普遍的無意識』に分けられるというものです。
個人的無意識が人間の個人の経験や体験などに基づくもので、心的外傷などはこれに含まれるといわれます。大して普遍的無意識とは、個人的無意識よりも前、人間が生まれる以前から持つ人類共通の概念としての無意識の事を指します。
世界中の神話や童話などにある種の共通点があり、話型として分類できる事をユングは「人間個人の経験に拠らない共通の“何か”があるからではないか」と推測し、それを『普遍的無意識』と名づけたのです。


つまり典型的オタク像とは人間の普遍的無意識に深く根ざしたものであり、恐らく世界中の誰もが“オタク”と言えば上に挙げた特徴を備えた人物を思い浮かべることでしょう。
そう――皆さんがオタクファッションと呼ぶ格好やオタクと呼ぶ人間像は全て無意識の底の普遍的無意識だったのです。


まさか本気にする人はいないでしょうが、一応いつもの如くヒマ潰しの考えたネタですので悪しからず。



1月 18日(火)
日本じゃ滅多に受け入れしてませんから(挨拶)



トルコで迫害されて日本に難民認定を申請していたクルド人親子が、強制送還と決まったようです。
入管も心がないなァとか法務省ももっと融通利かせればいいのにとか人並みな感想を抱いたあと、でもクルド人問題に首突っ込んでもなぁと納得してしまうChenowth。
トルコと日本はエルトゥールル号難破以来の友好国でありますし、その国で迫害された人間を難民として受け入れればトルコからの恨みを買う危険もあります。『国家に真の友人はいない』といわれる中でもわりかし友好的であるトルコに楯突くような真似はできません。
悪く言えばたかが二人のクルド人のために国交を犠牲にするつもりがないということでしょうか。トルコという国・政府と平和的関係を維持していくのは一国平和主義国日本としては当然の義務であります。平和の為なら名も知らぬ二人の異邦人など安いもの。

……ていうか会見の場で『こんな法律で、私達はどうやって幸せになれるって言うんですか!』と激昂されても、別にクルド人のための法律じゃないですから。今度は日本じゃなくてどこかトルコと国交のない国へ行かれるのが宜しいかと。


ところで、子供の性格というのは当然ながら環境によって大いに変化するものであります。
Chenowthの尊敬するナボコフがそう提唱したように、また或いは秋葉原に集うケンプファー達がそう信じるように、子供とは基本的に純真・純粋・無垢であってほしいものです。
しかしながら、こうした願望は大人の勝手な思い込み、或いは希望でしかないとChenowthは思うのです。
考えてもみてください。
情報が溢れる現代社会、そうして世間の汚穢にまみることなく純粋な魂を持ちつづける子供が存在しえるでしょうか? 底抜けに純粋だとか人を疑う事を知らないとか起訴されれば即有罪な悪戯を一片の疑いもなく受け入れるような子供が?
答えは否。否です。子供は大人がどういう生き物か、という事を的確に掴んでいるのです。例えば自分がかつて子供だった頃の記憶に想いを馳せる。さて自分は純真だったか? そうでもない
自分で言ってて何ですが、Chenowthは小学生の頃から妙にスれた子供でした。愛読書が『漂流教室』『はだしのゲン』という事もあって、人間の醜さをいっぱい学んで育ってきました。大人はみんな鮫島です。でなきゃ関谷です。
おとなは人間でガキは動物よ!(給食調理師のように)

閑話休題。
漫画や小説しかない時代ですらこうなるのですから(注:アンタだけです)、ましてや携帯電話やインターネットを自在に扱える現代の子供達が社会の汚れに染まる事無く育つ事など到底不可能なのです。
では現実世界に純粋なる子供を求める事ができなくなった戦士(フェダイン)達は、何にそれを求めれば良いのか――
それは妄想であり、それらの副産物である小説や絵画以外には有り得ません。
かくして人は人間/子供の純真さを求めるが故に妄想の中に子供の理想像を求め、そしてケンプファーの仲間入りをするのです。



1月 21日(土)
写真に見る平和な日常(挨拶)



時間がないのといい具合にネタができたので、今日は写真ネタです。
文章量少なくて済むからありがたいです。写真。曲がりなりにもモノを書く人間としてそのモティベーションの低さはどうかと思いますが、たまにはいいんじゃないんでしょうか。
少なくとも毎回毎回オタクの弁護的解釈にも等しい文章をつらつらと書き連ねるよりはよっぽど良いハズです。
特にお客様の脳には



▲ポストガール4巻を読み始めるChenowthの図


ポストガール4巻を購入した直後、読み始めようとするChenowthです。粗いのはサイズを変更した時に失敗したからです。ごめんなさい。
まあとにかくここで問題になるのは――Chenowthが読んでいるのがポストガールであるという事実です。
そう。ポストガールです。表紙を開けば青い色の扉絵とシンプルな「POST GIRL」というタイトルが私を迎えてくれるはずでした。
間違ってもスターシップ・オペレーターズのイラストがあるなどという事態はありません。が、事実そこにはスターシップ・オペレーターズの絵がありました。
遂に乱丁本掴んだか
と戦慄した瞬間、Chenowthはそれが折込のポストカードだという事に気付いてほっと胸をなでおろしました。
書店側には挟む場所を考えて欲しいと思った次第。(カラーページは特に綴じ込みの部分が弱いのだから)店側は配慮してくれないと



1月 26日(水)
『ストローマイク』はないだろ秋山(挨拶)



1月23日付の切込隊長BLOGにて、『「幼女性愛」は成人男性に共通する病理?』と題した記事が載せられておりました。
詳しくは該当する部分を見ていただくとして、Chenowthが感動したのは以下の部分であります。


「14歳以下に対する性的欲情の発露は成年男子にとって極めて正常な反応。それを具体的な行為に伴う犯罪に昇華させる率は、その人の性行為の多い少ないにかかわらず一定の割合必ず存在し、同様に所得や学歴、家族構成といった属人性による関連付けはできない」


考えてみれば、生物界に於いて『生殖が可能になる』時期と『生殖を行う』時期はほぼ同一であるのが道理です。
人間が何歳ほどで生殖可能な状態になるのかは存じませんが、大体13歳ほどではないかと思われます。つまり人間が社会的・道徳的制約なしに動物として生殖を行うとすれば、そのくらいの年齢でも何ら問題ないわけで。
そう――つまりロリコンとは、それを13歳前後を目標とする限りに於いて、それは自然的行為と見なされるわけですよ! やったぜナボコフ! ビー・ネイチュラル!


とは言え。
Chenowthが自然主義者どころか資本主義者だったり、右手の指二本を高く突き上げて「つるぺた(アンベハールト)! つるぺた(アンベハールト)! つるぺた(アンベハールト)!」とかぬかしている限り、上に述べたことは何の言い訳にもならないのですが。


あと心配なのは、上の記事を読む限りではこれから先Chenowthが犯罪者にならない保証はないとう事ですか。
もし逮捕された暁には、我が家に秘蔵の同人誌(大半がアレゲ)やレプリカばかりの軍装品、さらには我が愛用のPC(Win98)のHDD内にある再逮捕間違いなしのファイルの数々も暴かれてしまうでしょうな。
とりあえず友人のS原に、我が身に何かあった場合のHDD物理破壊と遺物全焼却処理を依頼しようかと真剣に考えてみる。



1月 31日(月)
見てくれ、ママ。おれは世界一だ。(挨拶)



妄想。


「やっぱりね、ハサハはね、みんなにやさしいにおにいちゃんがすき。
ハサハのことなんかみないおにいちゃんがすき」



この後、ハサハはまともな死体が残らないほどの死に方をして(以下略)



すいません。ちょっと忙しくて脳がボケてるだけなんです。
一週間に一度は更新せねば、しかし話題もなく、かくしてここにChenowthの脳内に渦巻く妄想の一端を公開してみました。
おれは、もう、ひでェ、クソだぜ