私は英文学科で、奴は芸術学科の学生だった。
 彼は永田という名前で、私の通っていた大学では珍しい一匹狼だった。その頃の大学は――少なくとも私の通っていた大学では――講義を受ける際には友人同士で固まって座り、学食では大人数で席を占拠し、キャンパス内を歩く際には喧しくお喋りをしながら歩くのが当然とされていた。だから一人で机に座ったり、学食を一人でそそくさと平らげたり、キャンパス内を一人でむっつりと歩く学生は非常に珍しかった。或いは独立志向というものを認めたがらない校風でもあったのかもしれない。
 彼と知り合ったのは篠塚という高校時代からの友人が切っ掛けだった。同じ大学に進んでからは何度か呑みに行ったのだが、何回目かの時におれの知り合いを連れて行ってもいいか、と訊かれたのだ。
「俺は構わない」
 そうして篠塚が連れてきたのが永田だった。眼鏡を掛けた中肉中背の男で、やけに大人しそうなのが印象的だった。大人しいというよりは、そう振舞おうと努力している感じだった。
「あんた、」
 永田は開口一番、私を見ていった。
「ドイツ語の授業取ってるだろ? 一番前の右端の席で。外池の講義の」
「確かに取ってるが、俺はあんたを知らない」
 私がそう言うと、彼は芸術学科の学生だと自己紹介し、ドイツ語と保健体育の授業で私を見かけたと言った。私は確かにその二つを課目登録申請していたが、そのどちらでも彼を見た覚えはなかった。
「まあいいや。でもこれで覚えただろ?」
 そう言って笑う永田は、案外明るい性格のように見えた。彼は酒も呑めたし、それに知識も豊富だった。私と篠塚のする衒学的な話によくついてきて、それから私はだんだんと永田という男に好感を抱き始めた。学部の違う篠塚が(彼は社会学部だった)どうやって彼と知り合ったのか知りたかったが、それを知ったのはかなり後だった。
「図書館で声を掛けられたんだ」
 後に永田と私だけで飲みに行くようになった頃、彼はそう教えてくれた。なんでも、彼がベートーヴェンの第九交響曲についての本を読んでいると、篠塚は「ドイツ語か?」と後ろから声を掛けたのだと言う。
「不思議な人だった。てっきり同じ芸術学科かと思ったよ。“第四楽章の第四部の最後、あれは凄いよな。転調しようとしたところで終わらせるなんて”とか言うんだ。何かと思ったよ」
「あいつはそういう男なんだよ。自分の詳しい事に関してならとことん知識をひけらかしたがるんだ」



「俺は病んでるんだ」
 ある時、永田は私にそう言った。「ときどき自分が大学――というか社会でやっていけるのか不安になる」
「それくらい俺にだってある」
 私がそう言うと、永田は首を振った。
「そうじゃない。普通ならそこで学歴社会が悪いとか、時代が悪いとか責任転嫁するだろう。俺はそういうのが出来ないんだ。『ああ、みんな普通にやっていけるのに、なぜ自分は出来ないなんて考えるんだろう』って思う時があるんだ。それで――」
 そこで永田は言葉を切って、ビールを口に運んだ。
「――ひょっとしてそれは俺が弱いからなんじゃないかと思う時がある。その度に自分の弱さを戒めて、背筋をしゃきっとさせなきゃいけない。そしてまたしばらく経つと不安になってくる。その繰り返しだ」
 私は黙ってビールを飲んだ。自分の飲み代だけ持つように決めてからは居酒屋に行くのも楽だった。高校時代に篠塚と呑んだときは、私がビール一本、奴がカクテル十数杯を飲んだ上に料金を割り勘にされて酷い目にあった。
「結局責任は自分にあると思っちゃうんだ。変だろ?」
「いや」
 私は答えた。つまみをむしゃむしゃと食べながら。
「たぶん斑栖(それが私の名前だった)には分からないと思うよ」
「あのな」
 今度はきちんと永田の目を見た。
「俺だって自分を責める事くらいある。というか、今までそうやって生きてきた」
 そして私は語った。篠塚と、その他の数少ない親友にしか話さなかったことを。その頃の私が両親と不和だった原因を。私が自分の妹に何をしたのかを。
 永田は私の話を聞いて驚いたようだった。私も驚いていた。永田と会ってから大して日も経っていないのに、どうして私はこんな話をしてしまったのか、今でも分からない。
「……あんたのは強烈だね」
「だろ。俺はお前なんかよりずっと自分を責めてるだろうよ。――少なくとも独り善がりじゃない。被害者がいるから」
 そう言うと、隣からしゃくりあげるような声が聞こえた。びっくりして隣を見ると、永田は笑っていた。それまで聞いたこともないような笑い声だった。
「だよな」
 永田は言った。
「あんたの悩みに比べれば、俺のなんてただの独り善がりだろうな」
 何を僻んでるんだ、と言おうとしてやめた。結局のところ、永田はそうやって自分を叱咤しないと生きていけない性質の人間なのだ。――人並みな悩みを深く考える彼自身と、誰からも赦されない罪を犯した私を比較して、自分の浅はかさを責め立てなければいけないような。
 つまるところ永田は、自分自身への憎悪を薪にして動いていた。そして私は、それは別に大したことではないと思っていた。



「ハンスって知ってるか」
 永田がそう言った。何回目に呑みに行った時だったかは忘れたが、とにかく彼はそう言ったのだ。
「どこのハンス?」
「『車輪の下』の。ヘッセのやつ」
「ギーベンラート?」
 そうだ、と永田は言った。その頃の彼は初めて会った頃よりも痩せていて、目は落ち窪んでいた。相変わらず大学で会うのはドイツ語と体育といくつかの講義程度だったが、彼と親交を結んでからもなぜかお互い隣の席に座ろうとはしなかった。
「ハンスって最後は死ぬだろ。――読んでなかったらネタをバラしちゃった事になるんだが」
「中学生の頃に読んだよ。確かに死ぬな。で?」
「なんで死んだのか考えた事あるか?」
 私はその時、なんとなく永田という男に恐怖を抱いた事を覚えている。死んだものは死んだのだ。それはヘルマン・ヘッセが決めたことであり、読者たる我々が考えることではない。それをなぜ、この男は考えようとするのか?
「……川に落ちて死んだんじゃないかな」
 私は言った。永田は首を振った。
「多分あいつは自分の身の凋落を嘆いたんだろうと思うよ。そして、その原因が自分にあると考えたんだろう。――実際は周りの大人が奴をそうさせたんだが」
 永田はゆっくりとビールを飲んだ。やけに呑み方が荒かった。
「それで」と私は言った。「その文庫本のおわりに収録できそうな素晴らしい解題は何を言おうとしてるのかな?」
 彼は軽く笑いを漏らしてから、ぼそりと言った。
「奴は自分の責任の埒外のことで自殺したんだよ」
 私は何も言わなかった。永田はしばらくしてから、「いや、そうじゃないな――ああくそ、上手く言えない」と呻いた。
 それから我々はだらだらと飲み続けた。枝豆を喰らい尽くし、ビールが無くなってからは永田がウィスキーを頼んだ。そんなに強い酒を呑むような奴ではなかったので、私にはそれがひどく奇妙に見えた。
 今思えば、それが何かの兆しだったのかもしれない。もちろんその時は気付かなかったが。
「時々さ」
 店を出る時、かつてないほどに酔っ払った永田が言った。こんなに酔って帰って、家族は何も言わないのだろうか。それとも一人暮らしなのだろうか。そういった事に関して、私は永田という男について全くの無知だった。
「俺はハンスの墓の上を歩いてるんじゃないかと思う時がある」
 その言葉の意味を理解するだけの理性が、その時の私には残っていなかった。それほど酔っ払っていた。永田が電信柱に寄りかかって嘔吐し、そして笑っていた。



 その翌日、私は一限のドイツ語の講義を受けるために二日酔いの頭を抑えて大学に行った。
 いつもの私の指定席である最前列右端に陣取って、退屈なドイツ語の講義を聴いた――講師の発音するやたらプロイセンじみた強いRの発音が気に食わなかった。きっと奴はderを「デル」と仮名表記するに違いないと思いながら、私はぼんやりとノートを取っていた。
 90分が過ぎて授業が終わり、私は後ろを振り返ってみた。永田は居なかった。奴の指定席である中央列右よりの前から六、七席目……そこは見知らぬ派手な格好をした女学生が座っていた。その女学生は私と目が合うと、にっこりと笑って私に軽く頭を下げて会釈をした。私は顔をしかめることでそれに応えて、教室を出た。
 結局その日は一日、永田の顔を見ることはなかった。そして私はそれをさして深刻な問題としては捉えていなかった。
 帰宅した私は、すぐに自室に篭もって酒を呑み始めた。自宅で呑む習慣が身に付いたのは高校生の時だったが、その時は少なくとも酒瓶をきちんと隠していた。今は机の上に放り出していたが、家族は私の飲酒癖について何も言わなかった。両親が不干渉であるというよりは、なんとなく私を疎んじているような感じがした。疎んじられるだけの理由が私にあったわけだが。過去に。
 当時の私の飲酒スタイルは“酔えればいい”というひどく歪んだものだったので、愛飲していたのはトリスウィスキーだった。水で割るのも面倒で、コップに注いで生のまま呑んだ。ツーフィンガーを二、三杯。酔いが頭に回るのを椅子に座りながらぼんやりと待って、私はその日の出来事を思い出し、一つ一つをアルコールの力でぐしゃぐしゃに溶かしていった。
 そのうち、廊下の電話がじりじりと鳴り始めた。誰かの足音が聞こえて、電話の呼び出し音が消えた。さらに数秒の間があって、再び足音がした。まっすぐ私の部屋に向かってきた。
「お兄ちゃん?」
 妹は控えめにノックをしてから、私の部屋のドアを開けた。私は酒瓶を隠そうとも、自分が酔っ払っている事を隠そうともしなかった。もう何度か見られている。妹は酒臭さの篭もった部屋の空気と、私の机の上の酒瓶を見て顔を歪めたが、結局は何も言わなかった。
「なんだ?」
「電話。ナガタさんって女の人から」
 そう言う妹の顔には訳の分からない笑みが浮かんでいた。私はナガタという女に覚えがなかった。酔っ払った頭で永田の事だろうかと思いついたが、奴は間違いなく男だった。
「分かった」
 足取りが覚束なかった。千鳥足でよろよろと歩き、廊下の壁にもたれるようにして小卓の上に乗った受話器を持ち上げた。
「どちら様でしょうか?」
「斑栖さんでいらっしゃいますか? 裕彦の母親でございます」
 おいおい勘弁してくれ、と思った。ヒロヒコなんて私は知らない。電話を切ろうとした時、私はようやく永田の下の名前を知らない事に気付いた。奴は裕彦なのかもしれない。
「永田君のお母様でらっしゃいますか」
「ええ、ええ、そうです」
 なぜか電話の相手は時折、激しく息を喘がせた。まるで男と寝ている最中に電話を掛けているようだった。
「その――何から申し上げたらいいのか――」
 突然吐き気が込み上げて来て、私は廊下の壁に額を押し付けた。ひんやりとしていて気持ち良かった。
「裕彦が亡くなりました」
「いつの事です?」
 その質問は、ほとんど間髪入れずに口をついて出た。まるであらかじめそれを知っていたかのような、自分でもぞっとするほどに落ち着いた応対だった。
「今朝――今朝早くに、あの……車の中で、ホースを繋いで、」
 私は今日の一限の授業を思い出した。私が辞書でabgebenという分離動詞を調べている同じ頃に、あいつは排気ガスをしこたま肺に吸い込んでいたのだろう。
 その想像の滑稽さに、私は笑いを堪えるのに必死だった。
「あの子、よく貴方の事を話してましたので……ご連絡差し上げたのですが、その、」
 そう言って、電話の向こうの永田の母親はしゃくりあげながら通夜の日時を私に告げた。私はそれをメモ用紙に書きとめて、かならず行きますよ、と答えて電話を切った。しかし私はひどい男だったので、結局永田の通夜にも葬式にも一度も顔を出さなかった。
「何の電話だったの?」
 部屋に戻る途中、妹が自室から顔を覗かせて私に尋ねた。おそらく私の女友達か何かだと思っていたのだろう。女の子にありがちな、他人の恋路への興味が顔にへばりついていた。妹のその顔を見ていると、なぜだかひどく哀しい気持ちになった。
「別に」
 私は素っ気無く答えて、自分の部屋に戻った。世間ではよくショックを受けると酔いが醒めると言われているが、あれは間違いだ――私はまだ酔っ払っていた。あるいは永田の死の知らせも私には大した衝撃をもたらさなかったのかもしれない。
 ただ、ああ、あいつもかと思っただけだった。
 永田は多分私に分かって欲しかったのだと思う。自分の罪を他に転嫁する術を知らなかったあいつは、自分で自分を戒めている自分を誰かに理解してほしかったのだ。私が同じように自らを責める性質の人間であることを見抜いて、同じ苦しみを共有しようとしたのだ。
 あいつが自家用車のマフラーからホースを繋ぎ、笑えるような几帳面さでホースを差し入れたパワーウインドウの隙間を目張りする光景が目に浮かぶ――きっと永田は、最後まで自分の中の苦悩を理解してくれない周囲を憎んでいたのだろう。多分その“周囲”の中には私も含まれていたと思う。そして場違いな怒りを撒き散らす自分自身を最も嫌悪していたに違いないのだ
 誰を憎む事も無く死んでゆくのはどんな気分だろうと私は想像して、私は怖気をふるった。
 おまえは完璧すぎたんだ、と私は心の中で呟いた。人間は誰だって責任を転嫁するもんなんだよ、永田。ごく当たり前の防衛機制ってやつだ。それが出来ない奴は、ハンスみたいに川に浮かぶことになっちまうんだよ。



 私は机の上のトリスの瓶を見つめた。明日は土曜で、講義はなかった。それにアルバイトは夕方からだった。私はコップになみなみと琥珀色の液体を注ぐと、それが麦茶か何かであるかのように一気に煽った。永田への弔いの意味と、おそらく良き友人では居られなかっただろう自分への戒めの意味で。それと、自分もまた永田やハンスと同じように自分への憎悪を募らせる人間なのではないかという薄ら寒い想像を打ち消すために。
 酩酊は強烈で、すぐに世界が平衡を失った。部屋の様々なものが渦を巻き、どこかでばたんという物音が聞こえた。
 私は床に倒れこんで、あるいはハンスが死んだときも、奴は酔っ払ってこんな風景を見ていたのだろうかと、そんな事をずっと考えていた。



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